エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |

市場と国家

歴史的に、市場と国家の、どちらが先かと言えば、現在の考古学上の見地などから言うと、市場が先と言うことになろう。古代国家が生まれる以前から、黒曜石などが、その産地から、かなり遠く離れた地域まで、交易により運ばれていた可能性が高いとされている。だれかのブログで、市場と国家では、歴史的に国家が先だというようなことが書かれていたように思うが、現時点における考古学上の見地からすると、歴史的には、国家より、市場が先なのである。

下記は、『世界大百科事典』、平凡社、「黒曜石」の項からの抜粋。

「最近の物理化学的手法の発達によって,この原石産地と遺跡出土の黒曜石の需給関係が正確に論じられるようになった。それによると,約2万年前に伊豆諸島神津島の黒曜石が本土に多く流入している事実や,約3000年前のハワイ諸島近くの遺跡にニューギニア付近の黒曜石が持ち込まれていたことがわかっており,海上交通が早くから行われていた証拠となっている。」

同じく、『世界大百科事典』、平凡社、「交易」の項からの抜粋。

「原始・古代において,産地の限られた天然資源とその加工品,あるいは製作に高度な技術を必要とする製品の交易が認められる。石器の材料となる黒曜石はアメリカや西アジアでも広く使用されたが,日本では十勝岳,長野県和田峠,伊豆,隠岐,大分県姫島,阿蘇などの地域に産地が限定される。」

「中国の雲南省や日本の新潟県姫川産の硬玉は装身具の材料として広く流通した。南海産の子安貝は旧石器時代のフランス,殷代の中国,縄文・弥生時代の日本の遺跡などで発見される。このほか,塩や接着剤のアスファルトなども交易の対象となった。金属器や陶器など,高度な技術で製作されたものの交易は青銅器時代以降に発達した。古代エジプトのファイアンスの青色の玉は流通範囲が広く,イギリスの墓地遺跡でも出土する。ヨーロッパでは交易品たる青銅器を携えて移動する人々が,製品を一時的に保管した埋納遺跡がある。原始社会の交易は小地域内のもの,広域にわたるもの,ともに互恵的な性格が強いが,古代には支配者によって政治的に掌握され,貢納物資として流通するものも現れた。」
スポンサーサイト
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

一騎当千

1000人で一つの事をするよりも、それぞれ一人一人が一つずつ、合わせて1000の創造的な業績を生み出す方が、はるかに日本社会にとっては有益であろう。少なくとも、人口が10倍の中国と競うなら、一人で10人分以上(できれば一騎当千以上)となるような仕事、すなわち一人一人が創造的な業績を生み出すのでなければ、日本の没落は避けられない。

そもそも、1000人で一つの事をする場合、必ず、何もしないで遊んでいる人間(寄生者あるいは搾取者)が、出て来るものであるし、しかも、1000人で一つの事しか出来ないのである。

また、皆で一緒に一つの事をしようという人間の中には、はじめから“寄生(搾取)”を目的としている人間がいる可能性もある(多くは共産主義者であろうが…)。そして、自分では何もしないが、他人には、させるように仕向けるという考えの延長に、共産主義体制の強制労働が存在するのである。

ちなみに、前述した、嶋正利氏などのような創造的な仕事を、あらゆる分野で、日本人、一人一人、全員が成し遂げた場合、どれほどの利益を、日本および世界に、もたらし得るかは、想像も出来ないほど大きいと考える。

日本とイギリス:二つの逆転(一人当たり名目GDP&円とポンドのシェア)
http://www.sumitomotrust.co.jp/BP/saving/money/20070510.html
イギリスと日本 / 日本のここがおかしい
http://www.mypress.jp/v2_writers/yuigahama/story/?story_id=1648683
嶋正利 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E6%AD%A3%E5%88%A9
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

東アジアと南アジアの繋がり

 産経新聞、平成19(2007)年12月11日付けは、天皇、皇后両陛下が10日、皇居で、スリランカ大統領ご夫妻と懇談された時の話を伝えている。

「紀元700年代には、日本から僧侶が仏教の経典を求めて渡来した記録が残っています」と大統領が語られたとのこと(宮内庁による)。

 ちなみに、奈良時代のインド人渡来僧、菩提僊那(ぼだいせんな、704年~760年)は、インドから中国を経て、日本まで来ている(下記URL参照)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%83%8A%E9%82%A3

 はるか、1300年ほど前、東アジアの日本および中国は、南アジアのインドおよびスリランカと、東南アジアを経由した海路で結ばれていたのでしょう。
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

アメリカの人種問題

 おそらく、アメリカ国内における人種問題は、今なお未解決の問題であろう。欧米の白人が、何世紀にもわたり、黒人を奴隷とし、売買してきた歴史上の汚点が、今もなお、尾を引いているのは、確かである。

 だからこそ、最近、過去の奴隷制や先住民迫害に対して、いくつかの州議会では謝罪決議が行われ、さらには連邦議会でも、同じような反省の動きが出はじめている。

 そして、希望はある。黒人と白人の混血である、バラク・オバマ議員が、アメリカ大統領候補として立候補し、かつ有望な存在として、認められつつある(下記サイト参照のこと)。

BARACK OBAMA 2004
http://www.geocities.jp/metropoleclub/p/obama.html
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

伊藤一長・長崎市長

 伊藤一長・長崎市長が、暴力団員に銃殺されました。哀悼の意を表したいと思います。

 日本の暴力団の幾つかは、組織的テロ実行国家である北朝鮮と、北朝鮮が製造する覚醒剤や麻薬そして銃器類等の密輸などで、密接な繋(つな)がりを有しています。

 平和活動に貢献した象徴的な市長であればこそ、政治的な意図を持った、暗殺の可能性も有るのではないかと、考えています。
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

日本の個人主義の起源(加筆あり)

 日本の個人主義の起源を考える時、よく明治以降、西洋からの影響と考えられがちであるが、そうではなく、仏教からの影響の方が、はるかに強いのではないかと考えている。

 たとえば、釈尊自身の言説や行動を古い仏典で読むと、それは、まさに個人主義者のものとしか考えられない。阿含経典など、個人の自由な意志が、可能な限り尊重されているのは、一読すれば分かることである。そして日本においては、鎌倉時代の、道元や、日蓮、そして法然などの僧侶は、個人主義の権化のようにも思える。

 近代における、個人の自由を過度に抑圧する集団主義(あるいは全体主義)こそ、西洋で生まれたものであろう。たとえば、キリスト教の異端審問や、魔女狩り魔女裁判。また、異端者や異分子への苛酷な仕打ちは、共産主義や国家社会主義ほど、顕著なのは明らかである。

 日本の場合、江戸時代においても、良寛などは、個人主義者で、自由人に思える。ちなみに、江戸時代の和算家(数学者)の関孝和は、自ら、自由亭と号したそうである。また、芭蕉にしても、北斎、広重にしても、まさに個人主義者で、かつ自由人であったろう。その他に、若冲、梅園、仁斎などなど…。これらの人々が、集団主義者だったとは、到底、言えまい。

 さらに、江戸時代を通して見た場合の武士個人にしても、不正を働くような、不名誉なことで名を汚すのは、恥以外の何ものでもなかったと考える。日本は、恥の文化だとも言われるが、恥というのは、個人の感情に基づくものであろう。

 そして、脱藩までしている、高杉晋作や、坂本龍馬などは、共に、既存の組織に囚(とら)われない、まさに個人主義者であり、かつ自由人である。このような、個人主義的な自由人が、祖国の為に尽力したことは、日本の精神文化の深みを感じさせる。

  おもしろきこともなき世をおもしろく (晋作) すみなすものは心なりけり (望東尼)

  いま一度、日本を洗濯致し候事、神願にて候 (龍馬)

 おわりに、有名な、都々逸(どどいつ)を、ひとつ。ここに、濃厚な自由の香りと、強烈な個人主義を、誰しもが、感じるのではないだろうか。しかも、時は、江戸時代末期である。

  三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい (高杉晋作)
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

【近・現代の歴史的事実】

近代の歴史においては、西欧の世界侵略という事実を、無視することはできません。数百年前の、いわゆる大航海時代の頃から、原住民の虐殺と略奪の限りを尽くしてきたことは、紛れも無い事実です。幕末から明治維新という日本の変革も、当時の西欧列強の世界的規模での侵略に、対抗するためのものでしょう。思想的には、人種差別主義も存在し、第一次世界大戦の頃までに、日本周辺以外、世界の大半は、西欧列強の植民地か、半植民地という状況でした。

上記のような、国際情勢を踏まえた上で、近・現代の日本と中国の関係を考えるとき、清国(1616~1912)のことから史実を明確にしておく必要があります。清国というのは、満洲を領土とした女真族(満洲人・満洲民族)が、万里の長城以南の中国(漢民族いわゆる中国人の歴史的領土)をも、征服して建てた王朝(王国)です。歴史的に、中国(漢民族)の領土とは、万里の長城より南側であり、北側の満洲および蒙古地域を、漢民族いわゆる中国人が歴史的に領土としたことなど、これまで一度も無いのです。万里の長城こそ、歴史的な領土の境界だと言えます。

1900年代の始めに、ロシア軍が満洲地域を侵略し、ほぼ占領します。清国が、ロシアの南下侵略を防ぐことができないのに、日本は大きな危機感を抱き、日露戦争(1904~05)に至るのです。この戦争で日本が勝利し、東アジア地域におけるロシアの南下侵略を、一応は、抑えることに成功します。

その後、1912年に清国は亡ぶのですが、辛亥革命により成立した中華民国は、実質的に中国を統治できず、幾つかの政府が生まれ、無政府状態となるのです。このあたりのことは、R・F・ジョンストン=著、『完訳紫禁城の黄昏(上・下)』、祥伝社、平成17年に詳しく書かれているので参照して欲しい。また、同書では、無政府状態の中国において、清国皇帝・溥儀が、自ら、日本公使館に逃げ込むところまで、生々しく描かれていることも付け加えておきたい。

そして、日露戦争の十数年後の1917年には、ロシア革命が起こり、世界で始めての社会主義国家・ソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連が樹立されます。さらに1921年には、中国共産党も設立され、それ以降、モスクワ・クレムリン(ソ連政府)からの、莫大な軍事援助と資金援助が、中国共産党に対して行われるようになるのです。東アジア地域では、それまでのロシアの南下侵略から、ソ連の南下侵略に変わったと言っても良い状況になるのです。このあたりは、K・カール・カワカミ=著、『シナ大陸の真相(1931-1938)』、福井雄三=訳、展転社、平成十三年に詳述されているので、ぜひ参照して欲しい。

ちなみに、ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著、『マオ誰も知らなかった毛沢東(上)』、土屋京子=訳、講談社、2005年の301pから引用すると、「★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」。

それから、重要なこととして、第一次大戦後の1919年パリ講和会議において、国際連盟規約に、日本が国家として、人種差別撤廃を目的に人種平等を条文化するよう求めたが、アメリカの反対で頓挫したことも、忘れてはならないことです。当時のアメリカでは、白人たちの手で衆人環視の中、黒人が殺されても、その黒人の遺族らは、事実上、裁判に訴えることすらできない、大変な、人種差別が存在していたのです。たとえば、ジェームズ・リッジウェイ=著、『アメリカの極右』、山本裕之=訳、新宿書房、1993年の、50pには、1919年のオマハでの事件として、ウィリアム・ブラウンという黒人が、大勢の白人たちによって焼き殺されている写真が掲載されています。

上記のような歴史的前段階があり、日本の支援のもと1932年3月1日、満洲民族の歴史的領土である満洲に、清朝(満洲民族王朝)の最後の皇帝・溥儀を執政とする満洲国が建国されたのです(後に溥儀は満洲国皇帝に即位)。これに対して、毛沢東を主席とする中華ソヴィエト政府(中国共産党が樹立)は、1932年4月26日(注・資料によっては、1932年4月15日)に対日戦争宣言を発表し、その後、1935年8月1日にも、中国共産党はモスクワから中華ソヴィエト政府名義で、内戦停止と抗日戦を宣言しました。また、1936年暮れの西安事件以降には、国共合作(中国国民党と中国共産党の軍事同盟)による抗日統一戦線が結成されます。以上のように、中国側が先に、日本に対する、戦争を宣言している歴史的事実があります。

そして、アメリカも、中国国民党の蒋介石に対して、莫大な軍事援助を行っていた歴史的事実が存在します。アメリカは、日本軍の真珠湾攻撃(1941年12月8日)以前の 1933年から、中立義務に反し、中国に対して軍事援助を行っています。その後、正規軍すら投入し、実質的に参戦していたのです。フライング・タイガースなどは、アメリカ政府自身、現在では、アメリカの正規軍であったことを認めているそうです。

また、このころより以降、中国において、軍人・民間人を問わず日本人が、無差別に〝テロ攻撃〟を受けるようになったのです。その具体的事例として、先に挙げた、『シナ大陸の真相(1931-1938)』の、本文より、一部を抜粋し、引用したい。

「※北 支
 …中略…
三、一九三五年八月、満洲国の国境から天津に向けて走行中の満洲国・中国国際列車が匪賊に襲撃された。調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に煽動されていた。約二〇名の乗客が殺害された。
四、一九三六年一月二日、天津付近のタークーで二軒の日本人商店が中国軍正規兵によって略奪された。
五、一九三六年六月二六日、北京近くで中国軍の正規兵が、豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士に襲いかかり重傷を負わせた。それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本人の陸軍大尉が中国軍兵士に刀と銃剣で斬りつけられた。
六、一九三六年六月一九日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。
七、一九三六年七月二二日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。一人は殺され、もう一人は重傷を負った。
八、一九三六年八月二三日、河北公共治安部隊の数名の兵士が天津の日本語学校を襲撃して略奪し、日本人の教師に暴行を加えて拉致した。
 …中略…
一一、一九三七年六月一日、中国人の暴徒の一団が天津付近の日本人経営の農場施設を襲い、一つの倉庫と三つの住居に放火し、多くの日本人従業員が負傷した。
※中 支
一、一九三五年一一月九日、日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。この重大事件については第八章で詳しく述べる。
 …中略…
四、一九三五年一二月二六日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に爆弾が投げ込まれた。
 …中略…
六、一九三六年七月一〇日、世界的に有名な東京三井物産の上海支店の日本人社員が国際租界で射殺された。
七、一九三六年七月一八日、中国人の暴漢が日本人の通行人を殴打し、重傷を負わせた。日本人の女や子供に投石する事件や上海の中国人が日本人に対して行なう暴力行為は、日を追うにつれて頻繁になった。短期間にそのような事件が二〇件以上も報告されている。
 …中略…
九、一九三六年八月二四日、四川省の成都で大阪毎日及び東京日々の特派員ともう一人の日本人の新聞社特派員が一万人の中国人の暴徒(その大部分は幼い少年少女だったのであるが)に襲われ、最も残忍なやり方で殺された。他の二人の日本人が重傷を負った。中国の地方当局は暴動を抑えるための何の手段も講じなかった。南京の中央政府も同様に無関心だった。四川省当局は必死で証拠を隠滅しようとし、日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害した。…
一〇、一九三六年九月一九日、漢口の日本領事館の警官が中国人に射殺された。
一一、一九三六年九月二三日、日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。他の二人の水兵は重傷を負った。
一二、一九三六年九月二六日、湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に中国人の暴徒が放火した。一九三六年九月二十九日、長沙の日本総領事館の建物に爆弾が投げ込まれた。
一三、一九三六年一〇月、上海の中国警察による日本人の女や子供の気紛れで不法な逮捕と抑留の事件が増加。
一四、一九三六年一一月一一日、日本の汽船会社に雇われた日本人の船乗りが上海で射殺された。
一五、一九三七年二月一三日、漢口で日本人の事業家の妻が中国人に襲われた。
※南 支
一、一九三六年一月六日、汕頭で二千人の中国人の中学生が日本に対する戦争を要求しつつデモを行なった。
二、一九三六年一月二一日、汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が自宅から出勤途中、中国人に射殺された。
 …中略…
六、一九三六年九月三日、広東省パクホイで中野という名前の日本人薬局経営者(薬剤師)が、一九路軍の中国人兵士によって惨殺された。暴徒が薬局を急襲した時、中野の家族は夕食を食べていた。中野は街路に引きずり出され、そこで蹴られ、殴られ、そして殺された。その間、彼の中国人の妻は筆舌に尽くしがたい程の虐待を受けた。店は完全に略奪された。広東の日本領事館職員が調査のため汽船でパクホイに赴いたが、一九路軍は力ずくで彼らの上陸を妨げた。…
七、一九三七年三月、広西省当局は反日感情を煽り立てるためのただそれだけの理由で、全ての日本人を広西省から追放した。」(124p~128p)

さらに言えば、1937年7月7日の盧溝橋事件も、最近の研究では、中国軍側からの銃撃によるものだとされています。また、盧溝橋事件発生、三週間後の7月29日には、通州事件という中国保安隊による大虐殺事件が発生します。この事件では、多くの女性や子供を含む二百数十名にも上る在中日本人が、中国保安隊(秘密裏に中国共産党支部が内部に結成されていた)によって、暴行を受け、惨殺されています。この件については、中村粲=著、『大東亜戦争への道』、展転社、平成三年の、401p~409pに詳しく書かれているので参照して欲しい。

ちなみに、明治維新以降、現在に至るまで、日本には横浜などに中華街が存在しますが、そこに居住した在日中国人に対して、日本政府や日本軍が〝テロ攻撃〟を行った事実は存在しません。

さて、このように、ソ連やアメリカの軍事援助を受けている中国側に、先に戦争を宣言され、これだけの自国民(在中日本人)を〝テロ攻撃〟により殺されたら、如何なる国といえども、自国民の生命を守るために、正当なる自衛戦争を行って不思議ではないと考えます。

〔注〕 上記は、「近・現代の日中関係」に、加筆したものです。
『随 想 録』「近・現代の日中関係」(下記、URL参照)
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/essay-page.html
『近・現代の日中関係』(下記、URL参照)
http://sasaki01.blog38.fc2.com/blog-entry-4.html

【参考文献および参考サイト】
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』、ラス・カサス=著、染田秀藤=訳、岩波文庫、1993年。
『国家と人種偏見』、ポール・ゴードン・ローレン=著、大蔵雄之助=訳、TBSブリタニカ、1995年。
『クロニック世界全史』、樺山紘一&木村靖二&窪添慶文&湯川武=編集委員、講談社、1994年。
『アメリカの極右』、ジェームズ・リッジウェイ=著、山本裕之=訳、新宿書房、1993年。
『民衆のアメリカ史(中)』、ハワード・ジン=著、猿谷要=監修、平野孝=訳、TBSブリタニカ、1993年。
『大東亜戦争への道』、中村粲=著、展転社、平成三年。
『シナ大陸の真相(1931-1938)』、K・カール・カワカミ=著、福井雄三=訳、展転社、平成十三年。
『共同研究 パル判決書(上・下)』、東京裁判研究会=編、講談社学術文庫、1992、1993年。
『完訳 紫禁城の黄昏(上・下)』、R・F・ジョンストン=著、渡部昇一=監修、中山理=訳、祥伝社、平成17年。
『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上・下)』、ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著、土屋京子=訳、講談社、2005年。
『昭和史の真実』(下記、URL参照)
http://www.history.gr.jp/~showa/mokuji1.html
http://www.history.gr.jp/~showa/mokuji2.html
http://www.history.gr.jp/~showa/mokuji3.html
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:1 |

中国共産党政権下で行われたことなど

下記は、中国共産党政権下において行われたことです(参考に…)。『毛沢東の文革大虐殺』、宋永毅=編、松田州二=訳、原書房、2006年、267p~269pより、抜粋。

罪悪と無恥
 (1)金儲けのために人殺しをした無頼漢
 その男の名は胡茂昌と言った。
 胡茂昌は目に一丁字もない男であり、食いしん坊の怠け者である上に手癖も悪く、周りの人からばかにされていた。殺人の嵐が吹き荒れたときも、生産大隊では胡茂昌を死刑執行者の頭数には加えていなかった。しかし胡茂昌はじっとしてはいなかった。自分も人殺しに行くとわめき、結局誰もそれを止めることができなかった。階級の敵を殺すという人間をどうして引き止めることなどできようか、というわけだった。しかし胡茂昌はなぜそこまで人殺しをしたいと考えたのだろうか。一つは、当時、人を殺したい、殺して殺して殺しまくりたいという衝動がしきりに起こったということがあり、もう一つは、人を殺せば補助金が出るので、すっからかんの貧乏人だった胡茂昌としてはその機会を逃す手はないと考えたからである。
 胡茂昌が所属していた生産大隊の「貧農・下層中農最高裁判所」が四類分子とその子女合わせて二十一人に死刑の判決を下すと、さっそく胡茂昌が「一人は俺が片付ける」と名乗りを上げた。そして「死刑囚の一味」が山に連れて行かれていざ処刑という段になったにもかかわらず、やはり手を下せないと言ってみんなが尻込みしていたちょうどそのとき、胡茂昌が一歩前に出て胸を叩きながら「何をびびってるんだ。見ていろ」と言い、民兵の一人から軍刀を奪って振り上げると、まばたき一つせずに一気に七人を斬り倒した。八人目になると軍刀の切れ味が落ちた。刃が曲がってしまったのである。胡茂昌はちぇっと口汚く罵りながら、鋤で土を掘り起こすときのようなやり方で八人目の首を強引にえぐり落とした。胡茂昌は全身に返り血を浴び、髪の毛にも血糊がべっとりとついていた。殺人を終えた胡茂昌は凱旋した英雄にでもなったかのように、時代劇に出てくる首切り役人の真似をして、まだ血の滴っている軍刀を頭よりも高く掲げ、どうだと言わんばかりに周りの者たちにその勇姿を見せつけた。たちまち周りからやんやの大喝采を博した。このとき、残りの十三人もすでに別の民兵たちに斬り殺されていた。胡茂昌は、転がっている首の一つを軍刀の切っ先で突き刺し、それを高く掲げて振り回したいという気が起こったが、結局そうすることをせず、辺りをぐるりと見回した。まだ何か物足りないような気がしていたが、そうだ、殺された者には子供も何人かいたはずだと思いついた。そこで、その場にいた生産大隊党支部書記に提案し、どこどこの家にいる三人のガキもいっしょに片付けてしまおうと言った。生産大隊書記の方才は、胡茂昌の振る舞いにすっかり圧倒されていた。胡茂昌にこれほどの器量があるとは思ってもいなかったのである。胡茂昌は方才の答えを待つより先に、先頭を切って村に戻った。その家にやってくると、ドアを開けた総領がどなたですかと声を掛ける間もなく、頭ごなしに一喝したかと思うとすぐ殺してしまった。二番目の子供が驚いて逃げ出そうとするところをつかまえて持ち上げ、力任せに投げつけてこれも殺した。胡茂昌が最後の一人を揺りかごの中から掴み出して型どおりに処理しようとしたとき、子供たちの祖母(実家の出身階級は良い方であり、また生産大隊の主たる責任者とも親戚関係にあったので、殺されないことに決まっていた--筆者註)が、びっこをひきながらも、雛を守ろうとする雌鳥のように飛びかかり、死にものぐるいで小さい孫を引っ張って放さなかった。胡茂昌はかんかんに腹を立て、全身の力を込めて老婆を突き飛ばし、子供の小さな両脚を掴んで力任せに地面に叩きつけた。甲高い悲鳴が轟く中、青筋のふくれあがった胡茂昌のすね一面に、赤い色や白い色をした脳みそがはね上がった。
 その日一日で、胡茂昌は殺人の手数料五十五元を手に入れた。それは胡茂昌が前年の末に受け取った生産大隊の配当より多い金額だった。当時道県では、一人殺すとふつう二、三元か或いは穀物五キロというようにその報酬はまちまちだったが、胡茂昌のいた生産大隊の経済状態はいくぶん良好だったようで、それで一人につき五元も出たのである。

同じく、下記は、『毛沢東の文革大虐殺』、宋永毅=編、松田州二=訳、原書房、2006年、368p~369pより、抜粋。

 本書に収めた湖南省道県の大虐殺、北京大興県の惨殺事件、広西チワン族自治区の四・二二派虐殺事件や同自治区賓陽県の虐殺事件、青海二・二三事件、雲南省沙旬村の事件、そして内人党大虐殺事件(北京大紅羅廠南小路二十号惨殺事件は、一つの家庭に降り掛かった災難ではあるが、一九六六年の北京の赤い八月におけるテロの残虐行為を伝えている)は、文革中に発生した一般的な粛清運動と比べてみた場合、次のような特徴を呈していることが分かる。
 (一)短い時間内に集中的におこなわれている。内人党虐殺事件(一般的な粛清運動が極端に拡大したもの)が一年半続いたことを除くと、二か月を超えないものが多く(道県の事件、広西四・二二派事件)、賓陽県の事件、大興県の事件、沙旬村の事件、青海二・二三事件は、いずれも発生して数日以内に収束している。きわめて短い時間の中で、場所によっては一日に百数十人というような大規模な殺人がおこなわれたのである。これは完全に「集団虐殺」の性質を呈しており、中共(引用者注・中国共産党)のこれまでの政治運動でもまれに見るものである。
 (二)殺人の方法がきわめて野蛮である。道県、賓陽県、大興県、内人党、四・二二などの事件では、いずれもリンチや残虐な体刑といった、暴徒がその凶暴性を発揮した性質の手段が用いられ、如何なる法律執行の形式も採られていない。刀で叩き斬る、棒で殴り殺す、縄で絞め殺す、石で叩き殺す、火であぶり殺す、溺死させる、強姦してから殺す、井戸に投げ込む、四肢をばらばらにする、首を切り落とす……など、ありとあらゆる手段が使われたが、とりわけ内モンゴルでは三十六種類の拷問がおこなわれたという記録があり、また資料によっては「数百種の超ファッショ的な」拷問手段があったという。さらに広西チワン族自治区では、「階級の敵」を殺害したあとその皮を剥ぎ取って煮て食うことまでした。

また、下記は、『新中国人』、ニコラス・クリストフ&シェリル・ウーダン=著、伊藤正&伊藤由紀子=訳、新潮社、1996年、86p~87pおよび89pより、抜粋。

 それらの文書によれば、一九六〇年代後半、広西チワン族自治区の複数の町と村で、少なくとも百三十七人、恐らくは数百人以上の人肉が食べられた。大勢で一つの遺体を分かち食べることが多かったので、人肉を食した人は数千人に上るかもしれない。これは過去一世紀ないしそれ以上の間に世界で起こったカニバリズム事件の中で、最大規模の一つに違いない。これまでのカニバリズムは、飢餓を満たすことが動機だったり、精神的障害が原因だったりしたものが大半だったが、このケースは、それとは異なる特徴があった。
 つまり、イデオロギー的に強制されたものだったのである。そこでのカニバリズムは公の場で行われ、しばしば共産党の当局者が組織した。そして人々は彼らの革命的情熱を証明するため、皆が一緒になって夢中になった。ある学校で、校長の死体の肉を最初にはぎ取り口にしたのは、校長の息子のかつてのガールフレンドだった。彼女はそうすることで、校長に何の同情も抱いていないことを示し、自分も他人に負けないほど「革命的」であることを訴えようとしたのだった。幾つかの中学校では、生徒たちが校庭で校長や教師らを惨殺してからあぶり焼きにし、「反革命分子」への勝利を祝って、皆でその肉を食べた。国営の食堂では食肉用の引っ掛けかぎに、人の死体がつるされており、人肉が政府の雇員に食用に供されたという。
 私が手にした文書は一九八〇年代に、地方当局が作成したもので、数々の残虐行為を書き記し、批判を加えている。以下に紹介するのは、広西チワン族自治区に関する記述の一ページ分から抜粋したものだ。

 上思県の上思初級中学で、プロレタリア独裁の大衆集会が開かれ、幹部を含む十二人が公開の場で殺された。死体の幾つかから肝臓が引き出され、県政府の食堂に運ばれた。県および人民公社の幹部もこれに参加した。
 同じ上思県の思陽人民公社で、県の軍事局長が和星村に行き、仲間とともに雁雄(トン・イエンション)を殺して、その肝臓を取り出し茹(ゆ)でて食べた。局長は人間の肝臓を食べると勇敢になれると言って、皆に食べるようけしかけた。翌日局長は、さらに四人を殺させて肝臓を取り出し、二、三の生産隊にそれを分配、「プロレタリア独裁」とはこういうものだと誇示した。
 …中略…

 これまで中国共産党がその罪悪を問われずに切り抜けてきたのは、歴史を思うままに支配してきたためだった。一九五〇年代末から六〇年代初め(引用者注・大躍進政策時)の大飢饉は「三年の自然災害」と命名されたが、これでは洪水や干ばつが原因で、毛沢東の誤りではなかったとの印象を与える。…

そして、下記は、『人禍』、丁抒=著、森幹夫=訳、学陽書房、1991年、122p~123pより、抜粋。これは、毛沢東主導の中国共産党政権下、大躍進政策時に行われたことです。

 甘粛省だけを例にとってみても、一九五八年に岷県から澆河の水をせきとめて数百キロも離れた慶陽県まで水を引くことが決定されると、河の沿岸の各県では二、三万の強壮な労働力を動員して、この巨大な工事に投入した。ところが、この工事は党幹部の単なる思いつきの産物で、専門家による設計を経ていなかった。そのため、六一年になって工事は結局失敗に終わった。
 その間、過労死、餓死、圧死、病死した者や、苦しい労働に耐えきれずに逃げ出したが捕まってつれ戻され、〝黒屋子〟〔暗い部屋で食事や水なども与えられず、外界と隔離されて放置された〕にとじこめられたまま餓死した者は、数えきれないほどであった。工事現場の沿道の近くの大きな穴の中にだけでも、数千という動員された農民たちの遺骨が散乱していた。

さらに、下記は、『中国がひた隠す毛沢東の真実』、北海閑人=著、廖建龍=訳、草思社、2005年、298pより、抜粋。

 一九七八年十二月十三日、中共(引用者注・中国共産党)中央副主席・葉剣英元帥は、中央工作会議の閉幕式の席上で「十年間の文化大革命では二千万人が死に、一億人がひどい目にあった。全人口の九分の一を占める人数だ。そして八千億人民元が浪費された」と、沈痛な面持ちで語った。
 一九八一年六月、中共(引用者注・中国共産党)中央総書記・胡耀邦は例の『歴史決議』草案を討議する会議報告の中で「一九五九年から六二年の期間中(引用者注・大躍進政策時)に、党全体の活動の失敗により困難な情況に陥り、全国で二千二百万人が〝非正常死亡〟〔政治的迫害や執政の失敗による死亡〕した」と率直に認めた。

再び、『人禍』、丁抒=著、森幹夫=訳、学陽書房、1991年、275p~276pより、抜粋。

 …マルクス・レーニンの教義によれば、共産党がその主張を実現するには暴力革命によって政権を奪取する以外に道はなく、毛沢東もこれ以外にはないと確信していた。…
 …中略…

 一年前にモスクワで講演したとき、毛沢東はこう語っている。「中国人は平和愛好者だなどと言う者がいる。だが、それは正しくない。中国人は闘争を好んでいる。われわれの考えでは、世界の人口の半数を犠牲にしても、資本主義を消滅させ、社会主義がこれにとって代わり……」
 通常兵器では世界の人口の半数を消滅させることはできない。毛沢東の言葉は明らかに、核兵器を使用して世界の半分を消滅させ、資本主義を葬り去ることを意味していたのである。

最後に、下記は、『中国が戦争を始める』、米陸軍大学戦略研究所=編、冨山泰&渡辺孝=訳、恒文社21、2002年、94pより、抜粋。

 中国指導者が自国の利益確保のため過去五十年にわたり一貫して武力を行使してきたことは、歴史が示している。
 中国と外国の軍事紛争のデータを調べた最近の調査によると、中国は一九四九~九二年に、実に百十八回も武力に訴えた。そして、エバン・ファイゲンボームが指摘するように、「一九四九年以降、三つの動機が中国を武力行使に駆り立ててきたことを事実上すべての証拠が示している。その三つとは、主要な領土をめぐる主権の主張、国境紛争、東アジアのバランス・オブ・パワーと関係する戦略的考慮である」

〔注〕 ちなみに、中国人の研究者の中には、文化大革命の犠牲者数を二百万人だとする者もいて、「一九七八年十二月十三日、中共中央副主席・葉剣英元帥は、中央工作会議の閉幕式の席上で、十年間の文化大革命では二千万人が死に、一億人がひどい目にあった。…」という数字を、無視しているようにも思われます。もしかすると、同じ中国人が、それだけの同胞を殺戮したことを認めたくないという、心理的抵抗が強く働いているのかも知れません。
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

七三一部隊の裁判について

 以下は、七三一部隊の裁判について、セルゲイ・イリイッチ・クズネツォフ=著、『シベリアの日本人捕虜たち(ロシア側から見た「ラーゲリ」の虚と実)』、岡田安彦=訳、集英社、1997年、215p-217pからの抜粋です。

 ●ハバロフスク法廷
 一九四九年一二月二五日から三〇日まで(引用者注・わずか6日間)、ハバロフスクでは細菌兵器の製造および使用で告発された二〇名のもと日本軍人の事件について、東京裁判(引用者注・1946年5月-1948年11月)とは別個に法廷が開かれた。もともとこれは沿海地方軍管区軍法会議によって公開裁判として開かれる予定だった。そしてその法廷には予期しないことはおこらないはずであった。なぜなら裁判はソ連領域で開かれるものであり、そのうえ法廷の地として、国の中心から遠く離れたハバロフスクが選ばれたのは偶然のことではない。その被疑者や証人たちは、ソ連軍に捕らえられた関東軍の軍人だった。法廷の経過についてソ連出版界への発表、公判廷への外国人の立入りは、きびしく制限された。簡単にいうなら、法廷の経過についてのすべてはソ連政府が希望した報道だけを世界が知るように、制限されたのだ。
 …中略…
 ハバロフスクでの審理は一九四九年一二月の軍事法廷で、四三年四月一九日付けソ連最高会議幹部会布告第一条により一二名の被疑者--細菌兵器の準備と使用の参加者--に有罪が宣告された。三五年のラーゲリ収容は関東軍司令官山田乙三大将、関東軍軍医部長梶塚隆二中将、関東軍獣医部長高橋隆篤中将、関東軍七三一部隊製造部長川島清少将、…省略。
 一方では、この審理が公正なものであったかどうかの疑いがおこった。すなわち、ハバロフスクでの裁判は国際法廷ではなかった。裁判には他国から弁護人や検事の代表が参加していなかった。そして被疑者はソ連の市民ではなかったし、ソ連の領土で犯罪をおかしたものでもなかった。 …中略… こうしてみると、自らが裁く役割をつとめたソ連の行動は、国際法の見地からしてまったく完全なものではなかった、といえるだろう。
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

耐震偽装建築の再発防止

分譲マンションの新築時に、損害保険加入を義務付け、その損害保険会社(地震等の災害時には保険金を支払う立場)による、厳重な建築確認検査に合格しなければ、販売できないとか、さらには、マンション購入資金を融資する銀行等の建築確認検査も合格しなければならないとか(担保物権の価値確認)、今現在、いろいろ検討されているようです。

その他、不特定多数の人が利用するホテルや、賃貸マンション、そして一戸建て住宅なども、同様に、防止策を検討するべきだと思います。いずれにしろ、建築の専門家ではない購入者個人では、検査しようがないのは確かでしょう。
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「知財立国」つづき

前回は皮肉なことも言ったが、ようやく日本政府が立てた、「知財立国」という戦略は、間違いではない(小泉首相の発案だとも聞いている)。問題は、その戦略を実現できるか、ということなのである。いままでは、自国民の独創的な業績を、全く評価できなかった事例が、いくつもある。「知財立国」という戦略を立てながら、自国民の独創的な業績すら、他国の企業などに、その権利を保有されてしまうようでは、お話にならない。

同じ誤りを繰り返さないようにする為には、どうすれば良いのか。他国の企業および研究機関等より、少しでも早く、自国さらには、できれば外国の独創的な業績をも、先に見い出せるようでなければならない(そして自国のものとするべきなのである)。また、その為にも、独創的な仕事には、大きな価値があるということを、日本社会に共通認識として普及させ、そのような仕事を尊重する必要がある。さらには独創的な仕事を評価できる、見る目を持った人材を育成する必要もある。

たとえば、独創的な仕事を評価するという意味では、あれほどニュースになった中村修二氏の高輝度青色発光ダイオードの発明に対して、当初、お年玉程度の報奨金しか払われなかったというのは、その企業経営者に全く国益という考えが無かったからだと思われる。

国益という観点から見た場合、数十年に一度と言われる発明や開発をしても、お年玉程度の評価しかないのなら、これからの日本の若い優秀な技術者や研究者は、そのような日本企業に勤めたいとは思わなくなり、すすんで外国企業や外国の研究機関を選ぶようになってしまうのは当然であろう。また、お年玉程度なら、開発や発明の努力をするだけ損であるという風潮が生まれ、日本の将来の、国益を損なうことも確かであろう。この程度のことは、国益という観点さえあれば、誰にでも理解できることである。

週刊!木村剛 powered by ココログ: [ゴーログ]なぜノーベル賞の前に評価しないのか?
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-a0a8.html
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「知財立国」

日本のマスメディアで、もてはやされるのは、どう見ても、二流、三流以下の、困った代物ばかり。そんな代物ばかりを、もてはやしていては、日本の水準が、あらゆる分野で世界に引けを取ることになるのが、分からないのだろうか…。日本に、一流と言ってよいものが、無いわけではない。歴史的には、『正法眼蔵』を著した道元のような、超一流も存在する。ところが、日本の、哲学や思想の専門雑誌などを見ると、ほとんどが、外国の哲学や思想の紹介で、お茶を濁すような内容ばかり。

また、他の分野でも同様である。たとえば、世界初のマイクロプロセッサーを生み出した嶋正利氏や、光造形法を発明した小玉秀男氏のような一流は存在する。しかし特許権は、共にアメリカの企業にあると聞いている。そして、青色発光ダイオードの中村修二氏(当時の、日本の勤務先での評価は、報奨金が数万円だとか)。中村氏は、その後、アメリカに移住してしまい、さらに、二、三の重要な開発や発明にも関わっているが、その権利も、おそらくは、アメリカ企業のものとなっていると思われる。

今後、日本は、日本人が発明したり開発したものなのに、アメリカ企業に莫大なライセンス料を払うことになる(本来なら、外国または外国企業が、日本人あるいは日本企業にライセンス料を払うはずのものなのに…)。どうして日本は、独創的なものを評価できないのか。しかも、それ故に、明らかに幾つかの例では、国益を損なっていると言えるのに…。

国益を損なった例は、これだけではない。たとえば、レーダー技術の基になる、分割陽極マグネトロンを発明し、実用的強さの超短波帯の電波を世界で最初に発生させた岡部金治郎。しかし、日本では評価されず、岡部の仕事を評価したアメリカ側が、それを基にレーダーを実用化してしまう。ミッドウェー海戦では、それが、日本海軍に勝利する大きな一因になったと考えられている(日本側で、岡部金治郎の仕事を評価しなかった者は、国賊であろう)。

このように、日本では戦前から戦後も同じように、独創的な仕事があるにも関わらず、それを評価せずに、国益を損なうことばかりを繰り返しているのである。ここまで来ると、評価しなかった側、あるいは、評価できなかった側に、問題があると言わざるを得ない(故に、日本のマスメディアで、もてはやされるのは、二流、三流以下の、困った代物ばかりとなるのかも知れないのだが…)。ちなみに日本政府は、「知財立国」を目指しているのだとか…(冗談だとしか思えない)。

【参考文献】
『計算機屋かく戦えり』、遠藤諭=著、アスキー出版局、1996年。
『独創者列伝 IT革命の礎を築いた日本人』、佐藤銀平=著、NTT出版、2005年。
『世界大百科事典<第2版>』(平凡社)、日立システムアンドサービス、1998、2004年。
歴史・社会 | コメント:0 | トラックバック:0 |

近・現代の日中関係

近・現代の日本と中国の関係を考えるとき、簡単にでも、清国(1616~1912)のことから史実を明確にしておく必要がある。まず清国というのは、満洲を領土とした女真族(満洲人・満洲民族)が、万里の長城以南の中国(中国人・漢民族の歴史的領土)をも、征服して建てた王朝(王国)なのである。要するに、中国(漢民族)の歴史的領土とは、万里の長城より南側であり、北側の満洲および蒙古地域を、中国人・漢民族が歴史的に領土としたことなど、無いのである。

その後、1900年代の初めには、ロシア軍が満洲地域を侵略し、ほぼ占領してしまう。清国が、ロシアの南下侵略を防ぐことができないのに、日本は大きな危機感を抱くことになる。そして、日露戦争(1904~05)に至るのである。この戦争で日本が勝利し、東アジア地域におけるロシアの南下侵略を、一応は、抑えることに成功する。

1912年に清国は亡ぶのだが、辛亥革命により成立した中華民国は、実質的に中国を統治できず、幾つかの政府が生まれ、無政府状態となるのである。このあたりのことは、R・F・ジョンストン=著、『完訳紫禁城の黄昏(上・下)』、祥伝社、平成17年に詳しく書かれているので参照して欲しい。また、同書では、無政府状態の中国において、清国皇帝・溥儀が、自ら、日本公使館に逃げ込むところまで、生々しく描かれていることも付け加えておきたい。

そして、日露戦争の十数年後の1917年には、ロシア革命が起こり、ソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連が樹立される。さらに1921年には、中国共産党も設立される。それ以降、モスクワ・クレムリン(ソ連政府)からの、莫大な軍事援助と資金援助が、中国共産党に行われるようになるのである。東アジア地域では、それまでのロシアの南下侵略から、ソ連の南下侵略に変わったと言っても良い。このあたりは、K・カール・カワカミ=著、『シナ大陸の真相(1931~1938)』、福井雄三=訳、展転社、平成十三年に詳述されているので、ぜひ参照して欲しい。

ちなみに、ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著、『マオ誰も知らなかった毛沢東(上)』、土屋京子=訳、講談社、2005年の301pから引用すると、「★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」。

このような歴史的前段階があり、日本の支援のもと1932年3月1日、満洲民族の歴史的領土である満洲に、溥儀を執政とする満洲国が建国されたのである(後に溥儀は満洲国皇帝に即位)。これに対して、毛沢東を主席とする中華ソヴィエト政府(中国共産党が樹立)は、1932年4月26日に対日戦争宣言を発表し、その後、1935年8月1日にも、中国共産党はモスクワから中華ソヴィエト政府名義で、内戦停止と抗日戦を宣言したのである。また、1936年暮れの西安事件以降には、国共合作(中国国民党と中国共産党の軍事同盟)による抗日統一戦線が結成されることになる。以上のように、中国側が先に、日本に対する、戦争を宣言している史実がある。

しかも、このころより以降、中国において、軍人・民間人を問わず日本人が、無差別に〝テロ攻撃〟を受けるようになったのである。その具体的事例として、先に挙げた、『シナ大陸の真相(1931~1938)』の、124p~128pから一部を抜粋し、引用したい。

「※北 支
 …中略…
三、一九三五年八月、満洲国の国境から天津に向けて走行中の満洲国・中国国際列車が匪賊に襲撃された。調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に煽動されていた。約二〇名の乗客が殺害された。
四、一九三六年一月二日、天津付近のタークーで二軒の日本人商店が中国軍正規兵によって略奪された。
五、一九三六年六月二六日、北京近くで中国軍の正規兵が、豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士に襲いかかり重傷を負わせた。それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本人の陸軍大尉が中国軍兵士に刀と銃剣で斬りつけられた。
六、一九三六年六月一九日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。
七、一九三六年七月二二日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。一人は殺され、もう一人は重傷を負った。
八、一九三六年八月二三日、河北公共治安部隊の数名の兵士が天津の日本語学校を襲撃して略奪し、日本人の教師に暴行を加えて拉致した。
 …中略…
一一、一九三七年六月一日、中国人の暴徒の一団が天津付近の日本人経営の農場施設を襲い、一つの倉庫と三つの住居に放火し、多くの日本人従業員が負傷した。
※中 支
一、一九三五年一一月九日、日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。この重大事件については第八章で詳しく述べる。
 …中略…
四、一九三五年一二月二六日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に爆弾が投げ込まれた。
 …中略…
六、一九三六年七月一〇日、世界的に有名な東京三井物産の上海支店の日本人社員が国際租界で射殺された。
七、一九三六年七月一八日、中国人の暴漢が日本人の通行人を殴打し、重傷を負わせた。日本人の女や子供に投石する事件や上海の中国人が日本人に対して行なう暴力行為は、日を追うにつれて頻繁になった。短期間にそのような事件が二〇件以上も報告されている。
 …中略…
九、一九三六年八月二四日、四川省の成都で大阪毎日及び東京日々の特派員ともう一人の日本人の新聞社特派員が一万人の中国人の暴徒(その大部分は幼い少年少女だったのであるが)に襲われ、最も残忍なやり方で殺された。他の二人の日本人が重傷を負った。中国の地方当局は暴動を抑えるための何の手段も講じなかった。南京の中央政府も同様に無関心だった。四川省当局は必死で証拠を隠滅しようとし、日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害した。…
一〇、一九三六年九月一九日、漢口の日本領事館の警官が中国人に射殺された。
一一、一九三六年九月二三日、日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。他の二人の水兵は重傷を負った。
一二、一九三六年九月二六日、湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に中国人の暴徒が放火した。一九三六年九月二十九日、長沙の日本総領事館の建物に爆弾が投げ込まれた。
一三、一九三六年一〇月、上海の中国警察による日本人の女や子供の気紛れで不法な逮捕と抑留の事件が増加。
一四、一九三六年一一月一一日、日本の汽船会社に雇われた日本人の船乗りが上海で射殺された。
一五、一九三七年二月一三日、漢口で日本人の事業家の妻が中国人に襲われた。
※南 支
一、一九三六年一月六日、汕頭で二千人の中国人の中学生が日本に対する戦争を要求しつつデモを行なった。
二、一九三六年一月二一日、汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が自宅から出勤途中、中国人に射殺された。
 …中略…
六、一九三六年九月三日、広東省パクホイで中野という名前の日本人薬局経営者(薬剤師)が、一九路軍の中国人兵士によって惨殺された。暴徒が薬局を急襲した時、中野の家族は夕食を食べていた。中野は街路に引きずり出され、そこで蹴られ、殴られ、そして殺された。その間、彼の中国人の妻は筆舌に尽くしがたい程の虐待を受けた。店は完全に略奪された。広東の日本領事館職員が調査のため汽船でパクホイに赴いたが、一九路軍は力ずくで彼らの上陸を妨げた。…
七、一九三七年三月、広西省当局は反日感情を煽り立てるためのただそれだけの理由で、全ての日本人を広西省から追放した。」

さらに言えば、1937年7月7日の盧溝橋事件も、最近の研究では、中国軍側からの銃撃によるものだとされている。また、盧溝橋事件発生、三週間後の7月 29日には、通州事件という中国保安隊による大虐殺事件が発生している。この事件では、多くの女性や子供を含む二百数十名にも上る日本人が、中国保安隊(秘密裏に中国共産党支部が内部に結成されていた)によって、強姦されたりした後、惨殺されている。この件については、中村粲=著、『大東亜戦争への道』、展転社、平成三年の、401p~409pに詳しく書かれているので参照して欲しい。
 
さて、このように中国側に先に戦争を宣言され、これだけの自国民を〝テロ攻撃〟により殺されたら、アメリカだとて、自国民の生命を守るために、正当なる自衛戦争を行うと思うのだが…。

【参考文献】
『クロニック世界全史』、樺山紘一&木村靖二&窪添慶文&湯川武=編集委員、講談社、1994年。
『大東亜戦争への道』、中村粲=著、展転社、平成三年。
『シナ大陸の真相(1931~1938)』、K・カール・カワカミ=著、福井雄三=訳、展転社、平成十三年。
『共同研究 パル判決書(上・下)』、東京裁判研究会=編、講談社学術文庫、1992、1993年。
『完訳 紫禁城の黄昏(上・下)』、R・F・ジョンストン=著、渡部昇一=監修、中山理=訳、祥伝社、平成17年。
『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上・下)』、ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著、土屋京子=訳、講談社、2005年。

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「随 想 録」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/essay-page.html
歴史・社会 | コメント:3 | トラックバック:0 |
| HOME |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。