エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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『完訳 紫禁城の黄昏』

 『完訳 紫禁城の黄昏(上・下)』、R・F・ジョンストン=著、渡部昇一=監修、中山理=訳、祥伝社。

 本書は、清朝(満洲民族王朝)末期に、皇帝・溥儀の家庭教師となる、ジョンストンの歴史的な証言だと言ってよいだろう。ジョンストンは、紫禁城の権威が、黄昏て往くさまを、見事に描いている。

 第一章では、日露戦争前の満洲が、ロシアに占領されていたことが述べられているが、シナでは、ロシア勢力を駆逐する、如何なる行動も取られなかったと記されている。ちなみに、最近、出版された、『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上・下)』、ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著によると、旧ソ連の秘密資料から、張作霖爆殺は、満洲における旧ソ連の謀略だったことが明らかにされている。

 清朝は、その後も、徐々に疲弊して往くが、疲弊の原因は、この場合、外国の圧力よりも、清朝(満洲民族王朝)の中枢部にある。

 国の存亡に、関心のある人には、この書は必読ものであろう。満洲民族王朝の疲弊は、満洲人のみで固められた中枢部、内務府の底知れぬ腐敗にあることが、よく解る。

 国が亡ぶ時は、国の中枢部が、信じ難いほどに腐敗し切っているのだ。これ(特に下巻)を読むと、今の日本の、官僚機構の組織的な腐敗に、相通じるもののあることが、痛いほどに理解できる。たとえば、公金を私物化して恥じない、下衆(げす)な精神など…。

 できれば、この書を読んだ後で、『特殊法人は国を潰す気か』、千葉仁志=著、小学館文庫や、『日本国の研究』、猪瀬直樹=著、文藝春秋などを読むと、腐敗した官僚組織というものが、国民一般、あるいは国家にとって、獅子身中の虫でしかないことが、理解できるはずである。
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「知財立国」

日本のマスメディアで、もてはやされるのは、どう見ても、二流、三流以下の、困った代物ばかり。そんな代物ばかりを、もてはやしていては、日本の水準が、あらゆる分野で世界に引けを取ることになるのが、分からないのだろうか…。日本に、一流と言ってよいものが、無いわけではない。歴史的には、『正法眼蔵』を著した道元のような、超一流も存在する。ところが、日本の、哲学や思想の専門雑誌などを見ると、ほとんどが、外国の哲学や思想の紹介で、お茶を濁すような内容ばかり。

また、他の分野でも同様である。たとえば、世界初のマイクロプロセッサーを生み出した嶋正利氏や、光造形法を発明した小玉秀男氏のような一流は存在する。しかし特許権は、共にアメリカの企業にあると聞いている。そして、青色発光ダイオードの中村修二氏(当時の、日本の勤務先での評価は、報奨金が数万円だとか)。中村氏は、その後、アメリカに移住してしまい、さらに、二、三の重要な開発や発明にも関わっているが、その権利も、おそらくは、アメリカ企業のものとなっていると思われる。

今後、日本は、日本人が発明したり開発したものなのに、アメリカ企業に莫大なライセンス料を払うことになる(本来なら、外国または外国企業が、日本人あるいは日本企業にライセンス料を払うはずのものなのに…)。どうして日本は、独創的なものを評価できないのか。しかも、それ故に、明らかに幾つかの例では、国益を損なっていると言えるのに…。

国益を損なった例は、これだけではない。たとえば、レーダー技術の基になる、分割陽極マグネトロンを発明し、実用的強さの超短波帯の電波を世界で最初に発生させた岡部金治郎。しかし、日本では評価されず、岡部の仕事を評価したアメリカ側が、それを基にレーダーを実用化してしまう。ミッドウェー海戦では、それが、日本海軍に勝利する大きな一因になったと考えられている(日本側で、岡部金治郎の仕事を評価しなかった者は、国賊であろう)。

このように、日本では戦前から戦後も同じように、独創的な仕事があるにも関わらず、それを評価せずに、国益を損なうことばかりを繰り返しているのである。ここまで来ると、評価しなかった側、あるいは、評価できなかった側に、問題があると言わざるを得ない(故に、日本のマスメディアで、もてはやされるのは、二流、三流以下の、困った代物ばかりとなるのかも知れないのだが…)。ちなみに日本政府は、「知財立国」を目指しているのだとか…(冗談だとしか思えない)。

【参考文献】
『計算機屋かく戦えり』、遠藤諭=著、アスキー出版局、1996年。
『独創者列伝 IT革命の礎を築いた日本人』、佐藤銀平=著、NTT出版、2005年。
『世界大百科事典<第2版>』(平凡社)、日立システムアンドサービス、1998、2004年。
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『正法眼蔵』

 講談社学術文庫で、『正法眼蔵(全八巻)』、増谷文雄=全訳注が、出揃いました。原文・現代語訳・注解が有りますから、多くの人にとって、読みやすいものだと思います。

 もう三十年ちかく経ちますが、この文庫の底本となった、角川書店刊、『正法眼蔵(全八巻)』、増谷文雄=全訳注を購入した時は、たしか私が、まだ十代の頃で、なけなしの、お金を払った記憶があります(おそらく文庫判だと、当時より数千円ほど、安く購入できるはずです)。

 道元の、『正法眼蔵』は、人類の、哲学思想史に残る名著です。

 少なくとも、哲学・思想・仏教などに関心のある人は、手元に置くべき書物の一つでしょう。ただし、『正法眼蔵』において、天才・道元が語っている内容は、非常に難解です。
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ヘーゲルについて(転載)

佐々木 寛  題名:はじめまして
投稿日 : 2005年12月23日<金>16時52分

佐々木と、云います。どうぞ、よろしく、お願いします。実は、最近、ヘーゲル=著、『精神現象学』、長谷川宏=訳、を購入しました。まだ、全部を読んでいません。

飛ばし読みをしているのですが、絶対的なるものとしての共同体、絶対知、絶対精神、…などと、ヘーゲルは述べていますが、彼が言う「絶対」とは、どういう意味なのでしょうか?

たとえば、共同体国家を絶対的だと言っても、旧ソ連のように現に亡んだ国家もあります。
 
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:takin  題名:ヘーゲルの「絶対」について
投稿日 : 2005年12月24日<土>02時04分

こんばんは、佐々木さん。takinです。

これは難しい質問ですね。私自身、まだ不勉強でして、やはり個々の文脈に即してでないと、答えられないといいますか・・

ただヘーゲルの使う概念を、直接に現実の事物(たとえば、旧ソ連)などと比べるのは、無理筋のようです。

拙ページで http://taki.cool.ne.jp/di/Te/index.htm#absolut 
ぼんやりとした説明はしているのですが、お役に立つかどうか・・

http://taki.cool.ne.jp/

Res:佐々木 寛  題名:○○さん takinさん 返信ありがとうございます
投稿日 : 2005年12月24日<土>10時40分

私にとって、主体が実体だというのは、なかなか理解しがたいことです。

それから、「ただヘーゲルの使う概念を、直接に現実の事物(たとえば、旧ソ連)などと比べるのは、無理筋のようです。」(takinさん)

とのことですが、そうすると、少し言い方を換えますと、ヘーゲルの概念は、現実の事物とは遊離したものと、言えなくもないことになります。

たとえば、「絶対知に至る」などと言った場合、普通それは、至り得る物事だと解釈できます。そうしますと、それは、相対的な関係の上に成り立つものだと考えられます。

そこで、相対的な関係の上に成り立つ「絶対知」を絶対と言うことは、私には妥当性があるように思えなくなるのです。

そして、共同体(あるいは共同体国家)に価値を置くことを否定しませんが、共同体が絶対のものではないから、不断の努力が必要になるのだとも考えます。

takinさんに紹介して頂いたページ、時間を見て拝見したいと思います。ありがとうございます。
 
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:佐々木 寛  題名:中観というより仏教の唯識的
投稿日 : 2005年12月24日<土>23時40分

「主体・主観性Subjektivitaetと云ふのは自己意識のことで、それは既に(自己と云ふ)対象との関係であり対象も含む全体のことです。(ですよね?)」(○○さん)

中観というより仏教の唯識的ですね。ただし「対象との関係であり対象も含む全体のこと」を仏教の唯識では、絶対なるものだとは言ってはいないと思います。基本的に仏教は、絶対的なものや実体的なものを否定的に捉えますから。

それでも、部分的にヘーゲルには、唯識に近いところもあると思えなくもないですね。その辺は、面白いと感じています。ヘーゲル自身、仏教の存在を知っています。たしか、『歴史哲学講義』の中に、仏教についてと題してヘーゲル自身が、ちょっとした文章を書いていますから。ある程度、仏教からの影響を感じますね。
 
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:takin  題名:分かる範囲で、お話をしますと・・
投稿日 : 2005年12月25日<日>00時36分

佐々木さん、○○さん、多くのコメントありがとうございます。

いろいろ多くの問題が出てきていますが、私自身よく分からないところばかりで、抽象的・一般的問題に対して、答えを組み上げるところまでいってません。

ただ、一般論として私が言えるのは:
1) 佐々木さんのおっしゃる
>ヘーゲルの概念は、現実の事物とは遊離したものと、言えなくもない
ということは、そのとおりだと思います。
それでは、彼の述べたことは空中楼閣となってダメだと言われそうですが、
そこは割り切ったうえで、ヘーゲルのお手並みを拝見しましょう――
というのが、私のスタンスです。

例えば、住宅会社がよくモデルルームを展示しています。いかにも快適そうですが、しかし、ピカピカに整理された家には、実際に住むことは無理です。息が詰まるし、生活のダサい場面で、いろいろ不便なことが多いと思います。しかし、モデルルームを見れば、刺激を受けるし、参考になることも事実です。

また、詰将棋は高度になって芸術的になるほど、実戦の棋譜からは離れてゆきます。では詰将棋と実戦とは何の関係もないかといえば、そうとも言えない・・

というわけで無責任なようですが、ヘーゲルの諸概念も、まずはモデルルームや詰将棋的に接してみようと、私などは考えています。

2) >主体が実体だというのは、なかなか理解しがたいことです。
『精神現象学』の「序文」で表明されている「実体は主体である」を、
念頭に置かれてのことだと思いますが、そのようにお感じになるのは、
もっともだと思います。
(正確な引用としては、「私の考えでは、すべては次のことにかかっている:
真なるものをたんに実体としてではなく、主体としても把握すること。」)

しかし私見では、専門家も含めて世間の人たちは、この有名な「実体=主体」テーゼを、ふつう誤解しています。つまり、ここでの「主体」は、近代的な個人の意識のありようを意味しているのではなく、「主体的運動(活動)」を意味しているのです。したがってヘーゲルは、「実体は、自立的な運動(活動)体である」と言っているわけです。このことは、「序文」での前記引用個所のすぐ後の段落の冒頭で、「活動的な [活ける] 実体は、実際のところ主体であるような存在である、あるいは同じことであるが、自己措定をする運動・・・という点において、現実的であるような存在である。」と述べられていることから、分かります。

そこで、「実体=主体」というテーゼそのものは、フィヒテの「自我の自己措定」、やシェリングの「絶対者とは、自己の外へ出て行くという、永遠の行為」という、論点を継承していくことを、述べたものにすぎないわけです。(この拙「実体=主体」理解は、やがて拙HPで詳説しようと思っています)。

http://taki.cool.ne.jp/  

Res:佐々木 寛  題名:転載について
投稿日 : 2005年12月27日<火>22時03分

takinさん ○○さんへ

興味深い話題ですので、この遣り取りを、転載して構わないでしょうか?

http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:takin  題名:転載OKです
投稿日 : 2005年12月27日<火>23時55分

私については、一向にかまいません。

何かのご参考にしていただければ、しあわせです。

http://taki.cool.ne.jp/  

Res:佐々木 寛  題名:転載の件
投稿日 : 2005年12月28日<水>09時08分

takinさん ○○さん

転載の件、了解して頂き、ありがとうございます。

http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/
 

〔注〕 上記は、下記のBBSでの議論を、転載したものです(なお、読みやすいように投稿の順番を入れ替えています。それから、後日、○○さんの投稿は転載しないで欲しいとの事で、削除しました。ただし、引用部分まで削除すると何を言っているのか分からなくなるので、○○さんとしました。ですから読みづらいかも知れません)。
「ドイツ観念論のページ」・「哲学と批評」のBBS
http://www.world2.to/wboard/a_3/wboard.cgi/takin/
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「ライプニッツの生得概念」

伝え聞くところによると、ライプニッツ(もしくは、その同調者)などは、幾何学における、「線とは、幅のない長さである」、などを例に上げて、これを経験に依ることのない、概念だと述べていたとか…。

だとすれば、おそらく、彼(あるいは、彼ら)は、幅のない長さだけのものなど、経験上、存在し得ないものだと考えたのであろうが、しかし、我々は経験上、実際に、或る物の長さを物差しなどで測っている時には、その幅や厚みのことを無視(幅や厚みが無いものと仮定)しているのである。

要するに、経験に依らないのではなく、逆に、経験から、「幅のない長さが、線として」、抽出されたと考えるのが、妥当であろう。

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載し、加筆したもの。
「随 想 録」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/essay-page.html
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竜樹(ナーガールジュナ)、『中論』の「八不」について

竜樹(ナーガールジュナ)、『中論』の「八不」(『中論』、三枝充悳=訳注、レグルス文庫、参考)。

不生亦不滅 不生にして亦た不滅
不常亦不断 不常にして亦た不断
不一亦不異 不一にして亦た不異
不来亦不去 不来にして亦た不去

生ずることもなく、また、滅することもない。
常住でもなく、また、断滅でもない。
同一であることなく、また、異なっていることもない。
来ることもなく、また、去ることもない。

上記は、空(くう)について書かれたものだが、この思想の背後には、近代科学のエネルギー概念に近いものが指し示されているように考えている。すなわち、真空妙有とは、固定的実体の無い真空のエネルギーのような存在についての確信とも言える。ちなみに、広辞苑によると、エネルギー保存の法則とは、「「外部からの影響を受けない物理系(孤立系)においては、その内部で、どのような物理的あるいは化学的変化が起っても、全体としてのエネルギーは不変である」という法則。無からエネルギーを創造し得ないことを示す、物理学の根本原理の一」と有る。そうだとすると、無から宇宙が生まれたとするような、ビッグバン宇宙「開闢」論などは、エネルギー保存の法則と、明らかに矛盾するものだと考える。
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【哲学】

【絶対者の非存在の証明】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

絶対者(Absolute)、とは何か。

キリスト教神学や西洋哲学などの絶対論者たちの言説から、一般に、絶対者とは、不変にして、他との比較や関係を絶して在るもの、あるいは、この生成変化している相対なる現象の世界から、全く無関係に独立して在る超越した存在ということになります。

故に、超越者とも言われます。そして、それはまた、他との関係を絶して在るが故に、他から何の制約も全く受けることが無いのです。依って、無制約者とも言われています。およそ、絶対論者たちの言う、絶対なるものとは、以上のようなものです。

ところで、われわれ人間は、そのような、絶対者ではありません。

当然のことではありますが、不変でも無く、他との比較や関係を絶して在るものでもありません。我々には、絶えず、関係し変化している、現象であるところの意識内容として、千変万化する喜怒哀楽の感情や、思索するという理性の働きが存在しています。

理性的に考えるならば、そのようなキリスト教および西洋哲学で言うところの絶対者と、我々が、如何なる関係も持ち得ないのは論理の必然です。

なぜなら、関係を絶して在るものと、関係を持つことなど出来はしないからです。関係を絶して在るものと、関係を持つことが出来ると言うのは全くの矛盾です。そしてまた、我々は、不変のものに変化を及ぼすことなど出来ないし、不変のものから変化を被ることも無いのです。その上、経験し得る事実としても、不変にして比較や関係を絶して在るものが、現象として在る我々の意識内容(=経験内容)に現出することなど有り得ない事なのです。すなわち、意識内容に現出しているもの、および現出し得るものとは、現象以外に存在しないのです。そして、不変にして比較および関係を絶して在るものが、我々の認識の対象に成ることは有り得ないし、また、その可能性すらも無いのです。極論すれば、そのようなものは本来、信仰の対象にも成り得ないものなのです。結局、我々と、絶対者とが、関係を有すると言うのは、経験し得る事実として有り得ない事であるし、しかも、論理の当然の帰結としても、我々と絶対者とが関係を有すると言うのは、全くの矛盾であり、錯誤です。さらに付け加えて言えば、我々が現象として存在している、この変化し、関係している現実の現象の世界に、絶対者は存在しないが、現実の現象の世界とは独立無関係の超越した処に、絶対者は存在すると考えたとしても意味がありません。何故なら、そのように現実の世界を超越した非現実(=形而上)の世界に在るものと、我々が関係を持つ事など有り得ないからです。そして、そのようなものから変化を被る事も無ければ、そのようなものに変化を及ぼす事も有り得ません。断言しますが、只の一度たりとも有り得ません。何故なら、只の一度でも何らかの関係が在ったのであるならば、それをして、絶対者であると言うのは誤りとなるからです。故に、理神論(deism)も成り立たない。さらに付け加えて言えば、キリスト教は啓示宗教であるとも言われていますが、その啓示と呼ばれているものが経験事実として意識内容に現出した瞬間、啓示が絶対では無いことと啓示の存在そのものが絶対者との関係の絶無を証明していることも認識するべきです(啓示とは、人間の能力では知り得ない真理や神秘が、唯一絶対なる超越神によって開示される事だと言われている)。以上、これまでの論説に拠って、唯一絶対の超越神、すなわち一神教で言うところの絶対なるものの非存在が証明されます。
 
【An Argument on Non-existence of the Absolute】 -- With additions to the released material in my own website on November 9, 1998 -- SASAKI Hiroshi

What is the "Absolute"?

According to the absolutists’ statement as seen in the fields such as Christian theology and Western philosophy, the absolute being is generally immutable; an existence beyond comparison and unfeasible to have a relationship with others, or a transcendent subsistence existing completely independent from this mutating and relative world of phenomena. Therefore, it is also called the transcendent. Since it is beyond relationships with other beings, it is completely free from any conditioning rendered by others at all. Thus, it is also called the Unconditional (“das Unbedingte”). These descriptions seem to be the plain summary of so-called the Absolute according to the absolutists. By the way, we, human beings, are not such absolute beings.

Obviously, we are neither immutable, beyond comparison or having relationships with others.

We all possess rational activities such as thinking and emotions such as the joy, anger, humor and pathos that change kaleidoscopically. These are the part of our consciousness as the phenomena of our on-going relativity and changes.

Rationally speaking, it is logically inevitable that we have no connection with such an absolute being of Christianity and Western philosophy because it is impossible to have a relationship with a being that exists beyond a relationship. It is entirely incoherent to say that we can have a relationship with a being that exists beyond a relationship. Besides, we cannot bring about a change to an immutable substance; neither can we obtain a change from an immutable substance. In addition, even in view of the experimental fact, it is also improbable for an immutable, incomparable, and transcendent being to be revealed in our phenomenal consciousness (= experience). That is, the thing currently revealed in our consciousness and the things which can be revealed do not exist apart from the phenomena. Neither can an immutable, incomparable, and transcendent being be subjected to our consciousness. There is not even a possibility for such. Extremely speaking, it cannot principally become the object of faith. After all, there is no objective reality of such a notion that we can have a relationship with the Absolute. Moreover, it is an inevitable logical conclusion: to say we can have a relationship with the Absolute is incoherent, and is a fallacy. Furthermore, if I may add, we exist as a phenomenon, and the Absolute does not exist in this changing and relative world of actual phenomena; yet, you might think that the Absolute exists at the independent, non-relative transcendent place apart from the world of actual phenomena. Such a premise is meaningless because it is not possible for us to have a relationship with a being in an unrealistic (= metaphysical) world which is transcendent from the actual world. And we cannot obtain a change from an immutable substance; neither can we bring about a change to an immutable substance. I am absolutely certain that it is not possible at all, not even once because, if a relationship with the Absolute were possible even once, then the idea of “It is the Absolute” itself becomes false. Consequently, deism is unfeasible either. Furthermore, at the moment what is called revelation appears to our consciousness as an objective reality, the revelation is proven not to be the Absolute. The existence of revelation itself nullifies the relationship with the Absolute negating the assumption of Christianity as a revealed religion. (Revelation refers to the truths and mysteries beyond human capacity to understand what is revealed by the only absolute and transcendent God.) Hence, non-existence of the only absolute and transcendent God, namely what monotheism calls the Absolute, is proven by the above argument so far.
 
【実体の非存在の証明】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

実体論者たちの言う、実体(Substance)、とは何か。

事物や意識または精神などの、生成変化する現象の根底に在って、それらの変化を司(つかさど)り支配する、それ自体は変化せぬ恒常なるもの、すなわち、実体。

なんと稚拙な哲学であることか。それ自体、変化しない恒常なるものが、どうして変化を司り、変化を及ぼすことができるのか。もし、それ自体変化しない恒常なるもの実体が、変化を司り現象に変化を及ぼすと言うのであるならば、変化を司り変化を及ぼすという事自体を、どう考えれば良いのか。司ること、および、何かを及ぼすこと、それ自体、変化している事に他ならないではないか。まさに、矛盾した言説以外の何ものでも無い。彼らが言う実体とは、本来、ある現象の内に在って、その現象に、ある変化を及ぼし、かつ被る、その現象内の内部現象と言うべきものなのです。

実体論者たちが、それは違う、現象の根底には必ずや、生成変化している現象とは全く関係の無い、不変にして唯一の実体が在るのだ、と言うのであるならば、まったく関係の無い実体が在ったとして、それは、まさに字義通り、現象である我々とは、まったく関係の無いものでしかないのです。結局、実体とは、虚構の概念でしか無いのです。我々の経験内容(=意識内容)に、実体が現れることは有り得ませんし、それに何らかの影響を及ぼしたり、それから何らかの影響を及ばされることも有り得ません。何故なら、それが我々の経験内容に現れたり、影響が在った瞬間、それは実体で無かったことを証明してしまうからです。拠って実体とは、事実経験ないし経験し得る事実として存在し得ず、尚且つ、論理的に矛盾した虚構の存在でしかない事が解ります。以上において、実体の非存在も証明された。
 
【An Argument on Non-existence of Substance】 -- With additions to the released material in my own website on November 9, 1998 -- SASAKI Hiroshi

What is the “Substance” according to substantialists?

It refers to an entity that exists at the root of mutable phenomena such as objects, consciousness, and mind. This also governs and controls the changes entirely while itself is remaining immutable and constant, namely, a substance.

What a naive philosophy it is! How can a constant entity govern and bring about changes while existing itself immutable and constant. If an immutable and consistent substance governs "change" and causes "change" to phenomena, then, how are we ought to consider the meanings of the very actions like “to govern” or “to cause a change”? To govern and to cause something: these actions themselves are to "change" or subject to "change", aren't they? Such notion is absolutely absurd and even contradictory. What they call "Substance" is essentially within a certain phenomenon causing a certain change to and obtaining such from the phenomenon. Namely, it should be considered as an internal phenomenon within the phenomena.

Substantialists would say that is not correct. In other words, they may assert the notion that there is the only one immutable Substance existing independent from the mutable phenomena completely and consistently at the root of any phenomena. If this is the case, their Substance is exactly, as they say, something that has nothing to do with us, humans, who exist as mere phenomena. After all, what they call the "Substance" is nothing but a fictitious concept. It is not plausible that the Substance reveals itself in our experience (=consciousness). Neither is it plausible that the Substance influences something else or is influenced by something else. At the moment it reveals itself in or influences our experience, it proves itself not to be the Substance. At this point, it has become clear that the Substance cannot exist as an objective experience or an objective reality. Moreover, we can see it is nothing but a logically incoherent fictitious existence. Henceforth, the nonexistence of substance was also proven above.
 
【認識論】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

一般的に認識というものは、対象となる事実経験(対象事実)と、論理一般(名辞:記号、概念:観念、論理:構造)の無矛盾性と、価値一般(正と負と中立の価値および全的価値と個別価値など)との妥当性という、三種の要素の整合性によって齎(もたら)されるものと考える。

非常に短いが、これで、一般的な認識については十分であろうと考える。
 
【Epistemology】 -- With additions to the released material in my own website on November 9, 1998 -- SASAKI Hiroshi

I believe that, to know something generally requires the coordination of the three types of elements: Objective experiences with its subject (subjective reality), Consistency of general logic (constitution of concept=symbols, concept=idea, logic=constitution), and Validity of general value (includes positive/negative/neutral values and the general/individual values).

This explanation is very short; however, it will probably be sufficient to explain epistemology in general.
 
【永遠の今】 --平成11(1999)年9月26日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

われわれを含む現象の総体(森羅万象)の、一秒前の、現象の総体(森羅万象)は、もはや存在しません。そして、一秒後の、現象の総体(森羅万象)は、いまだ存在しません。

それは、一秒という時間だけでは無く、一千分の一秒という時間でも、一万分の一秒でも、一億分の一秒でも、一兆分の一秒という時間でも、同様です。

われわれを含む、一兆分の一秒前の森羅万象の汎(すべ)ては、もはや存在しません。そして、一兆分の一秒後の森羅万象の汎(すべ)ては、いまだ存在しません。

ただし、過去の現象の総体が存在したことは、確かであり、それが、悠久の過去から継起をつづけ、今現在の、われわれへと至っているのです。

たとえば、父母未生以前に、われわれは存在しません。

そして、そこでの、われわれ人間の存在価値とは、もはや存在しないものと、いまだ存在しないものの間隙(かんげき)の瞬間、その刹那に在って継起しつづける永遠の今を生きる、われわれ人間の営為そのものに在る。

ほんとうの、ほんとうの、神というのは、汎(すべ)てを悠久の昔から継起させつづける“永遠の今”なのかも知れない。 

【Eternal Now】 -- With additions to the released material in my own website on September, 26, 1999 -- SASAKI Hiroshi

The whole phenomenon (universe) one second before the whole phenomenon (universe) including us does not exist any longer. And the whole phenomenon (universe) of one second after does not yet exist.

It is not only the time frame of per second, but also the same in case of the time frames of per 0.001 seconds, per 0.0001 seconds, per 1/10 million-second, or even per 1/1 trillion seconds.

The entire universe including us, even just 1/1-trillion seconds prior, does not exist any longer. And all the universe of 1/1-trillion seconds in the future does not yet exist.

However, it is clear that the past whole phenomenon existed, continued from the past-time immemorial, and has come to us in this present moment. For example, we do not exist before our parents were yet to born.

And there, our existential value as human beings resides in our very action, as human, of living this Eternal Now within the momentum continuation amid the gap between what does not exist any longer and what does not yet exist.

Maybe, this "Eternal Now" which maintains the continuation of all existence from time immemorial could be truly truly a "god."

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「原文と英訳」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/original-english.html

〔追記〕 我々が存在する相対的なる現象世界とは別に存在するものを想定しようが、結局それは、我々の世界と相対的に存在するものでしかなく、絶対者などでは有り得ないのです。
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交換価値と労働価値説

『ウィキペディア(Wikipedia)』、2005年、価値の項目から、抜粋(なお、下記URLの内容は、現在、書き換えられています)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%A1%E5%80%A4

「交換(こうかん)は、経済活動の最も基本的な行動である。すなわち、物々交換も貨幣による売買も交換である。マルクス経済学では、交換される二財には、二つを釣り合わせる何かがあると考え、これを価値と呼んだ。交換は価値の等しい二財間で行われることになる。等しくなければ、どちらかが一方的に損をすることになり、いずれは交換が成立しなくなってしまうからである(等価交換の原則)。そして、これらの価値を測る絶対的尺度が、商品に投下された「労働量」である。価値は、抽象的人間労働によって生み出されるものであり、希少性や一時的な需要によるものでないとマルクス経済学では考える。(労働価値説)」(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

「しかし、近代経済学から、労働価値説は資源配分をうまく説明できないことが批判された。例えば、熊が鹿の2倍の価格であったとき、労働価値説は、次のように説明する。すなわち、狩人が熊を一匹獲るのに6時間、鹿を一匹獲るのに3時間かかったからだと。しかし、この説明には大きな欠点がある、と近代経済学は指摘する。なぜ、狩人は鹿の2倍の時間をかけてまで、熊を捕らえたのだろうか。それは熊が鹿の2倍の価格だからではないか。もし、熊の価格が鹿の2倍を超えるのであれば、全ての狩人は熊を狩り、熊の価格が鹿の2倍を下回るのであれば、全ての狩人は鹿を狩るのではないか。つまり、各財への資源配分(ここでは労働量)の大小によって各財の価格が決まるのではなく、各財の価格が先に決まって、それに沿って各財へ資源配分がなされるのではないか、というのが近代経済学からの批判であった。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

ここが、重要なのである。マルクスは、交換(売買成立)以前において、労働量に実体的価値を認める立場なのだが、近代経済学では、「各財への資源配分(ここでは労働量)の大小によって各財の価格が決まるのではなく、(交換あるいは売買成立により)各財の価格が先に決まって、それに沿って各財へ資源配分がなされる」という立場なのである。マルクスと近代経済学では、どちらが現実を、より整合的に説明できるかと言えば、近代経済学の立場であるのは、明白であろう。

その理論(言説)自体に整合性があるか、さらに、その理論(言説)と現実(実験結果などを含む)に整合性はあるか、という少なくとも二つの観点から、物事を見るべきでしょう。マルクス主義の理論には、その理論自体の整合性と、理論と現実との整合性の、双方に問題があると言わざるを得ません。
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【見通し】

見通しという言葉は、広辞苑によると、「新しい事態・課題状況に当面したとき、試行錯誤的に解決を見出すのでなく、問題の全体的構造を把握して解決を図ること」とあり、これは普通、洞察と言われていることと同義でしょう。

ただし、洞察(見通し)の基になるのは、自問自答(思考実験を含む)や試行錯誤などの経験だと考えられます。おそらく、どれだけ多くの自問自答や試行錯誤の経験があるかによって、洞察力に程度の差が生まれるものと考えます。

ある言説を耳にして、それは違う、それは正しいと、的確に判断できるのは、それまでに多くの自問自答や試行錯誤の経験があり、洞察力が養われていたからだと言えるでしょう。昨今の情報化社会では、的確な見通し(洞察)こそ、より重要視されるものと考えます。言い換えると、的確な見通しとは、哲学的な営みの一つであるとも言えます。

たとえば、マルクス主義思想でいうところの「搾取」とは、どういうことかを考える。マルキストらによって、企業に勤める労働者は、搾取されていると云われる。では、失業中の労働者は、当然、なんの搾取もされていないはずである。ところが、ここで疑問が湧き起こる。具体的に言うと、搾取されていない解雇された労働者は、雇用され搾取されている労働者より、所得が低くなるのは何故か。所得の面から言えば、労働者は雇用され搾取された方が、収入が多くなるのである。

また、マルキストらの、未来は必然的に共産主義社会へと至るという主張も、マルクスを含め、誰も、未来に行ったことがないのに、どうして、必然的だと言えるのか。

というように、マルキストらの主張が、瞬時に疑わしい言説であることを、見抜ける(洞察できる)ことは、非常に重要な意味を有するし、大きな利益になることでもある。要するに、共産主義政党政権下で行われたような、甚大な不利益を避けることにも、繋(つな)がり得ることなのである。
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哲学的

比較的若い時分を除けば、われわれ人間の、ほとんどは、世の中で生きている内に、何らかの見通しや指針というものを築いていると思う。そして、その何らかの見通しや指針は、広い意味で哲学的なものと言って良い。要するに、われわれは、哲学的なものと無縁では有り得ない。無縁である場合、われわれ人間の生活の全ては、行き当たりばったりのものとなってしまう。

問題は、その見通しや指針の内容である。洋の東西を問わず、優れた哲学的言説には、重要な意味を有するものが少なからずある。

私の場合、物心が付くか、付かないか、という頃から、注意を引く見るもの全てについて、「これは何か」と自問していた記憶がある。そうこうする内に、こうして自問していれば、いつか将来、すべてを見通し何らかの指針が得られるはずであり、そうすれば、私だけではなく他の人達にとっても有益である、という強い信念を抱くようになり、現在に至っている(結果、哲学に関わること意外には、関心が低い)。

私の哲学(自らのサイトや自著等で公表)の基礎は、十代の初めまでに、ほぼ独自に形成されていたと言っても過言ではない。ただ、強く影響を受けたものはある。ひとつ例を上げると、般若心経の色即是空などは、「物的現象には、実体がない」という意味で、現代語に訳されているが、小学校高学年の頃、その部分的な訳を読み、これは何か凄いことが書かれていると、驚嘆した覚えがある。そこから、さらに、自身の哲学が、深化したように思っている。
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「ケインズ的言説」

不景気の時には、意味のない穴掘りにでも、政府が支出しさえすれば景気が回復するという「ケインズ的言説」に、昔から私は、うさんくささや、いかがわしさを感じていたのだが(要するに、意味のない穴掘りに、お金を使っても意味はないだろうと…)、最近、ニューディール政策(ケインズ的)が景気回復には、ほとんど効果が無かったという説が有ることなどを知り、ますます、その感を強めていた。

また、この度、デミアンさんのブログの「ケインズ経済学の破綻」という、櫻川昌哉の『金融立国試論』の書評を読んで、さらにケインズの説が破綻しているという、確信すら持つようになった(下記、URL参照のこと)。
http://ameblo.jp/tomoaki-takeda/entry-10006539694.html

では何故、今まで、「ケインズ的言説」が、もてはやされてきたのか? おそらく、官僚にとって、これほど都合のよい、言いわけ(エクスキューズ)が無いからだろう。

たとえば、山里に、何とかピアなどという、わけの分からぬものを造るため(しかも自らの天下り先の確保も兼ね)、無駄に税金を、何十億、何百億円と使っても、権威ある「ケインズ」によれば、景気回復につながると、言いわけ(エクスキューズ)ができるのである。

しかし、現実は、意味のないものに、お金を使っても、それは無駄になるだけでなく、その上、公的部門の債務(国民の負債)を増やしてしまうのである。

ちなみに、アマゾンで、『金融立国試論』のレビューを見たが、その幾つかは、官僚と思われる人間の、破綻している「ケインズ的言説」の擁護でしかないと思われるものもある(レヴュー書く暇があったら、公的部門の債務を減らすことでも、真剣に考えたら、どうなんだと言いたくなるのだが…)。
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ノルウェーの著述家たち

「時がさらに進むと、ノルウェーの著述家たちは哲学的エッセイを提唱するようになりました。著名なノンフィクション作家Hans Skjervheim(1926年~)はエッセイを通して複雑な問題をオープンに提起し、わかりやすい言葉で議論して、また人々の生活に共通する問題と結びつけて検証しています。」(下記、URLからの引用)
http://www.norway.or.jp/culture/literature/essays/essays.htm

このブログでも、ノルウェーの著述家たちのように、いろいろな問題について、分かりやすい言葉で、語ってゆきたいと思っています。
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近・現代の日中関係

近・現代の日本と中国の関係を考えるとき、簡単にでも、清国(1616~1912)のことから史実を明確にしておく必要がある。まず清国というのは、満洲を領土とした女真族(満洲人・満洲民族)が、万里の長城以南の中国(中国人・漢民族の歴史的領土)をも、征服して建てた王朝(王国)なのである。要するに、中国(漢民族)の歴史的領土とは、万里の長城より南側であり、北側の満洲および蒙古地域を、中国人・漢民族が歴史的に領土としたことなど、無いのである。

その後、1900年代の初めには、ロシア軍が満洲地域を侵略し、ほぼ占領してしまう。清国が、ロシアの南下侵略を防ぐことができないのに、日本は大きな危機感を抱くことになる。そして、日露戦争(1904~05)に至るのである。この戦争で日本が勝利し、東アジア地域におけるロシアの南下侵略を、一応は、抑えることに成功する。

1912年に清国は亡ぶのだが、辛亥革命により成立した中華民国は、実質的に中国を統治できず、幾つかの政府が生まれ、無政府状態となるのである。このあたりのことは、R・F・ジョンストン=著、『完訳紫禁城の黄昏(上・下)』、祥伝社、平成17年に詳しく書かれているので参照して欲しい。また、同書では、無政府状態の中国において、清国皇帝・溥儀が、自ら、日本公使館に逃げ込むところまで、生々しく描かれていることも付け加えておきたい。

そして、日露戦争の十数年後の1917年には、ロシア革命が起こり、ソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連が樹立される。さらに1921年には、中国共産党も設立される。それ以降、モスクワ・クレムリン(ソ連政府)からの、莫大な軍事援助と資金援助が、中国共産党に行われるようになるのである。東アジア地域では、それまでのロシアの南下侵略から、ソ連の南下侵略に変わったと言っても良い。このあたりは、K・カール・カワカミ=著、『シナ大陸の真相(1931~1938)』、福井雄三=訳、展転社、平成十三年に詳述されているので、ぜひ参照して欲しい。

ちなみに、ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著、『マオ誰も知らなかった毛沢東(上)』、土屋京子=訳、講談社、2005年の301pから引用すると、「★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」。

このような歴史的前段階があり、日本の支援のもと1932年3月1日、満洲民族の歴史的領土である満洲に、溥儀を執政とする満洲国が建国されたのである(後に溥儀は満洲国皇帝に即位)。これに対して、毛沢東を主席とする中華ソヴィエト政府(中国共産党が樹立)は、1932年4月26日に対日戦争宣言を発表し、その後、1935年8月1日にも、中国共産党はモスクワから中華ソヴィエト政府名義で、内戦停止と抗日戦を宣言したのである。また、1936年暮れの西安事件以降には、国共合作(中国国民党と中国共産党の軍事同盟)による抗日統一戦線が結成されることになる。以上のように、中国側が先に、日本に対する、戦争を宣言している史実がある。

しかも、このころより以降、中国において、軍人・民間人を問わず日本人が、無差別に〝テロ攻撃〟を受けるようになったのである。その具体的事例として、先に挙げた、『シナ大陸の真相(1931~1938)』の、124p~128pから一部を抜粋し、引用したい。

「※北 支
 …中略…
三、一九三五年八月、満洲国の国境から天津に向けて走行中の満洲国・中国国際列車が匪賊に襲撃された。調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に煽動されていた。約二〇名の乗客が殺害された。
四、一九三六年一月二日、天津付近のタークーで二軒の日本人商店が中国軍正規兵によって略奪された。
五、一九三六年六月二六日、北京近くで中国軍の正規兵が、豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士に襲いかかり重傷を負わせた。それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本人の陸軍大尉が中国軍兵士に刀と銃剣で斬りつけられた。
六、一九三六年六月一九日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。
七、一九三六年七月二二日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。一人は殺され、もう一人は重傷を負った。
八、一九三六年八月二三日、河北公共治安部隊の数名の兵士が天津の日本語学校を襲撃して略奪し、日本人の教師に暴行を加えて拉致した。
 …中略…
一一、一九三七年六月一日、中国人の暴徒の一団が天津付近の日本人経営の農場施設を襲い、一つの倉庫と三つの住居に放火し、多くの日本人従業員が負傷した。
※中 支
一、一九三五年一一月九日、日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。この重大事件については第八章で詳しく述べる。
 …中略…
四、一九三五年一二月二六日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に爆弾が投げ込まれた。
 …中略…
六、一九三六年七月一〇日、世界的に有名な東京三井物産の上海支店の日本人社員が国際租界で射殺された。
七、一九三六年七月一八日、中国人の暴漢が日本人の通行人を殴打し、重傷を負わせた。日本人の女や子供に投石する事件や上海の中国人が日本人に対して行なう暴力行為は、日を追うにつれて頻繁になった。短期間にそのような事件が二〇件以上も報告されている。
 …中略…
九、一九三六年八月二四日、四川省の成都で大阪毎日及び東京日々の特派員ともう一人の日本人の新聞社特派員が一万人の中国人の暴徒(その大部分は幼い少年少女だったのであるが)に襲われ、最も残忍なやり方で殺された。他の二人の日本人が重傷を負った。中国の地方当局は暴動を抑えるための何の手段も講じなかった。南京の中央政府も同様に無関心だった。四川省当局は必死で証拠を隠滅しようとし、日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害した。…
一〇、一九三六年九月一九日、漢口の日本領事館の警官が中国人に射殺された。
一一、一九三六年九月二三日、日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。他の二人の水兵は重傷を負った。
一二、一九三六年九月二六日、湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に中国人の暴徒が放火した。一九三六年九月二十九日、長沙の日本総領事館の建物に爆弾が投げ込まれた。
一三、一九三六年一〇月、上海の中国警察による日本人の女や子供の気紛れで不法な逮捕と抑留の事件が増加。
一四、一九三六年一一月一一日、日本の汽船会社に雇われた日本人の船乗りが上海で射殺された。
一五、一九三七年二月一三日、漢口で日本人の事業家の妻が中国人に襲われた。
※南 支
一、一九三六年一月六日、汕頭で二千人の中国人の中学生が日本に対する戦争を要求しつつデモを行なった。
二、一九三六年一月二一日、汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が自宅から出勤途中、中国人に射殺された。
 …中略…
六、一九三六年九月三日、広東省パクホイで中野という名前の日本人薬局経営者(薬剤師)が、一九路軍の中国人兵士によって惨殺された。暴徒が薬局を急襲した時、中野の家族は夕食を食べていた。中野は街路に引きずり出され、そこで蹴られ、殴られ、そして殺された。その間、彼の中国人の妻は筆舌に尽くしがたい程の虐待を受けた。店は完全に略奪された。広東の日本領事館職員が調査のため汽船でパクホイに赴いたが、一九路軍は力ずくで彼らの上陸を妨げた。…
七、一九三七年三月、広西省当局は反日感情を煽り立てるためのただそれだけの理由で、全ての日本人を広西省から追放した。」

さらに言えば、1937年7月7日の盧溝橋事件も、最近の研究では、中国軍側からの銃撃によるものだとされている。また、盧溝橋事件発生、三週間後の7月 29日には、通州事件という中国保安隊による大虐殺事件が発生している。この事件では、多くの女性や子供を含む二百数十名にも上る日本人が、中国保安隊(秘密裏に中国共産党支部が内部に結成されていた)によって、強姦されたりした後、惨殺されている。この件については、中村粲=著、『大東亜戦争への道』、展転社、平成三年の、401p~409pに詳しく書かれているので参照して欲しい。
 
さて、このように中国側に先に戦争を宣言され、これだけの自国民を〝テロ攻撃〟により殺されたら、アメリカだとて、自国民の生命を守るために、正当なる自衛戦争を行うと思うのだが…。

【参考文献】
『クロニック世界全史』、樺山紘一&木村靖二&窪添慶文&湯川武=編集委員、講談社、1994年。
『大東亜戦争への道』、中村粲=著、展転社、平成三年。
『シナ大陸の真相(1931~1938)』、K・カール・カワカミ=著、福井雄三=訳、展転社、平成十三年。
『共同研究 パル判決書(上・下)』、東京裁判研究会=編、講談社学術文庫、1992、1993年。
『完訳 紫禁城の黄昏(上・下)』、R・F・ジョンストン=著、渡部昇一=監修、中山理=訳、祥伝社、平成17年。
『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上・下)』、ユン・チアン&ジョン・ハリディ=著、土屋京子=訳、講談社、2005年。

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「随 想 録」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/essay-page.html
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生産性の向上による活力ある社会

平成17年11月25日の、日本経済新聞に広告として、あるシンポジウムの内容が、掲載されていた。その基調講演で、日本IBMの会長が、活力ある社会をつくる必要を述べている。これからの日本社会は、急激な人口減少(当然、労働力人口も減少)を迎え、しかも、公的部門の巨額な財政赤字も削減していかなければならない。そして、その為にも、日本経済が持続的に成長し、活力ある社会を実現する必要があるのは、当然のことであろう。

そこで、フォードシステムを例に上げた私の前日の投稿(この下の投稿)でも分かるように、生産性の向上(分かりやすく言えば、少ない時間で数多い製品の製造を可能にすることなど)が不可欠なのは誰でも分かると思うのだが、問題は、少なからぬ日本企業(大半が中小企業)の管理職以上に、「生産性向上」という意識が乏しいか、欠落していることにある。

実際、テレビのインタビューに答えて、「もっと労働者の労働時間を増やして生産性を上げなければならない」という、生産性の向上という観点からすると、まったく意味のない発言をするような経営者が居るようでは、逆に、生産性が下がる一方ではないかと危惧せざるを得ない。また、挙句の果てには、長時間の労働で体を壊す労働者が続出して、医療費、社会保障費等も増え、公的部門の財政赤字の削減も、儘(まま)ならないということにもなりかねない。

日本の労働力人口の減少をカバーし、なおかつ持続的に経済成長する為には、やはり、生産性の向上による労働時間の短縮は重要な意味を有すると言わざるを得ない。問題は、「労働者に長時間労働させれば生産性が上がる」のだという、間違った考えを持つ少なからぬ日本企業(ほとんどが中小企業)の管理職以上にある。そういう間違った考えを、啓蒙することも必要であろうし、法的な条件として、労働時間の短縮を促進し、生産性向上(具体的には、短時間での生産数増大など)を助長することも、重要だと考える。

追記;言うまでもないことですが、一応、付け加えておきます。当然のことながら、生産性の向上および企業活動は、当の事業に直接関係する法律(建設会社であれば建築基準法等)だけではなく労働基準法など、その他の関連する法律すべてを守った上で行われなければなりません。
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共産主義体制下の強制労働と資本家フォードのフォードシステム

数年前、ある地方テレビのインタビューに答えて、その地方の、ある企業経営者が「もっと労働者の労働時間を増やして生産性を上げなければならない」という趣旨の発言をしていたが、なんと馬鹿な経営者かと呆れたことがあった。

単に、労働時間を増やしても、生産性を上げることには成らないのが、まったく理解できていないようだった。生産性が上がったと言えるのは、具体的に言うと、たとえば、一日八時間なら八時間の労働のうちに、それまでよりも多い製品等の製造をした場合なのである。

もっと分かりやすく言えば、一日八時間ではなく、一日六時間で、それまでより三割増しの製品等を作れるようになれば、生産性は上がったと言えるのである。さらに言えば、一日八時間ではなく、その半分の時間で、それまでよりも倍以上の製品等を作れるようになれば、かなりの程度、生産性が向上したと言えるのである。ただし、売れている製品等である必要がある。

要するに、それまでと同様の方法等のままで、労働者の労働時間を増やしても、それは、まったく生産性を上げたことにはならないのである。

生産性向上の具体例として、フォードシステムがある。うろ覚えの記憶によるが、フォードは、当時の同業他社とは、まったく〝異なる方法〟で、車の生産をし、たしか、他社の労働者の労働時間が、一日十数時間であったとき、自社の労働者の労働時間を半分近い一日八時間にして、なおかつ他社より、単位時間あたり、二十倍以上の生産台数を誇ったということである。

これなどは、常識として知っておかなければならない、生産性向上の見本のような例なのだが、こういうことを、まったく知らない企業経営者や管理職が居るということが、少なからぬ日本企業の生産性を上げることのできない一因だと思われる。

そして、はじめに私が例として上げた、日本の或る地方企業の経営者の考えは、どちらかというと、フォードよりも、中国共産党の遣り方に近いものだと考える。

丁抒=著、『人禍』、森幹夫=訳、学陽書房、一九九一年の、122p~123pからの抜粋。

「甘粛省だけを例にとってみても、一九五八年に岷県から澆河の水をせきとめて数百キロも離れた慶陽県まで水を引くことが決定されると、河の沿岸の各県では二、三万の強壮な労働力を動員して、この巨大な工事に投入した。ところが、この工事は党幹部の単なる思いつきの産物で、専門家による設計を経ていなかった。そのため、六一年になって工事は結局失敗に終わった。
 その間、過労死、餓死、圧死、病死した者や、苦しい労働に耐えきれずに逃げ出したが捕まってつれ戻され、〝黒屋子〟〔暗い部屋で食事や水なども与えられず、外界と隔離されて放置された〕にとじこめられたまま餓死した者は、数えきれないほどであった。工事現場の沿道の近くの大きな穴の中にだけでも、数千という動員された農民たちの遺骨が散乱していた。」

上記のように、共産主義体制下において行なわれたと考えられる〝過労死〟および〝病死〟に至るまでの苛酷な長時間の強制労働と、資本家フォード個人が行なった、フォードシステムによる〝生産性の向上〟および〝労働時間の短縮〟を比較した場合、共産主義体制は、極悪非道の大量殺人システムと言う以外ないように思える(ちなみに、アメリカでは憲法で共産主義が禁止されているとか、他国の良いところは日本も見習うべきでしょう)。

過去、何十年にもわたって、如何に共産主義体制が、世界中に大量のデマを宣伝してきたことか…。

北海閑人=著、『中国がひた隠す毛沢東の真実』、廖建龍=訳、草思社、2005年の、298pより抜粋。

「一九七八年十二月十三日、中共(注・中国共産党)中央副主席・葉剣英元帥は、中央工作会議の閉幕式の席上で「十年間の文化大革命では二千万人が死に、一億人がひどい目にあった。全人口の九分の一を占める人数だ。そして八千億人民元が浪費された」と、沈痛な面持ちで語った。
 一九八一年六月、中共(注・中国共産党)中央総書記・胡耀邦は例の『歴史決議』草案を討議する会議報告の中で「一九五九年から六二年の期間中(注・大躍進政策時)に、党全体の活動の失敗により困難な情況に陥り、全国で二千二百万人が〝非正常死亡〟〔政治的迫害や執政の失敗による死亡〕した」と率直に認めた。」

上記のように、中国共産党自身が出した犠牲死亡者数は、合計四千二百万人だが、これも、かなりの程度、少なく見積ったものではないかと思われる。

カン・ヒョク=著、『北朝鮮の子供たち(脱北少年が見た〝楽園〟の真実)』、檜垣嗣子=訳、文春文庫、2005年の、8~9pより抜粋。

「…北朝鮮は、この地球上でもっとも忌むべき全体主義国家のひとつである。その特徴をあげるならば、常軌を逸した個人崇拝、壊滅状態の経済、嘘とプロパガンダの帝国、少なくとも二十万の人がとらわれている強制収容所、ということになるだろう。この共産主義のジュラシック・パークには、どのような反対意見でも密告することが徳とされる、冷戦の偏執狂的雰囲気がただよっている。 …中略… 一九九三、九四年以来、同国で猛威をふるっている飢饉は、もっとも弱い立場に置かれた人々を中心に、二百万から三百万の死者を出すこととなった。大規模な国際援助がおこなわれたにもかかわらず、それらの物資はほとんど軍にまわされてしまった。首都平壌の政府は食糧危機を「自然災害」によるものと説明したが、ひどい飢饉の原因は実のところ、この独裁政権の恐ろしいまでの不条理と異常な論理とにこそ求められるべきなのだ。 …中略… (本書構成)フィリップ・グランジュロー」

このような共産主義体制と、自由主義下でフォード個人が行った生産性の向上による労働者の労働時間の短縮などを比較すると、雲泥の差を感じざるを得ない。
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ハイデッガー、『存在と時間』 & フーコー、『言葉と物』

ある人の奨めもあり、ハイデッガーの『存在と時間』(ちくま学芸文庫)と、フーコーの『言葉と物』(新潮社)を、ここ何ヶ月かの間に読みましたが、哲学の存在論としては、どちらも、存在とは何かという問いに、答えることが出来ていないというのが、率直な感想です。

ハイデッガーの『存在と時間』では、冒頭部分で、「古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている(19p)」、と述べていますが、結局、『存在と時間』では、それが出来ていません。

また、フーコーの『言葉と物』では、「われわれの反省の天空には、ひとつの--おそらくは到達不能の--言説が君臨している。それは、存在論であると同時に意味論でもあるような言説なのだ。構造主義は新たな方法ではない。それは、近代の知の目ざめた不安な意識にほかならない(229p)」、とも述べています(おそらく、ハイデッガーの『存在と時間』が念頭にあるのでしょう)。

端的に言えば、構造の最小要素の概念化こそ、存在の意味の概念化だと、言い換えることも可能でしょう。

私という存在が、存在とは何かを問う時、問うこと自体、いつもすでに(あるいは、つねにすでに)存在と関わりがあることは解ります。そこでハイデッガーは、この問いは循環論になるのではないかと危惧するのですが、これは循環論ではなく、自己言及にならざるを得ない問いなのです。

自己言及の場合、矛盾になる場合と、ならない場合があります。たとえば、「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」場合、そして、「この文章は9文字だ」という場合などです(後者では矛盾は無く字義通りです)。

存在とは何かを概念的に明確にする場合、その概念も存在しているものですから、存在の概念と存在が、同じ意味にならなければなりません(要するに字義通りなら矛盾は無い)。

ここで、存在とは何かを概念的に言表すると、それは、「関係し、変化している事柄」であると、明確に言えます。このことは、数年前から私自身のサイトに掲載している哲学の論文や自著の中でも、明確に述べています。仏教的に言えば、縁起および無常が、存在の意味なのです。すなわち、色即是空。

このあたりのことが、十分に〝会得〟できれば、道元が、『正法眼蔵』(増谷文雄=訳注、角川書店)の「有時」の巻で、「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり。この道理に明星出現す、如来出現す、眼睛出現す、拈華出現す。これ時なり、時にあらざれば不恁麼なり(第一巻、209p)」と、言ったことも理解できるはずです。

それから、最近、非西洋の≪知≫について述べている、ディック・テレシの『失われた発見』(大月書店)なども読みましたが(はじめの部分で、コペルニクスがアラビアの学者から剽窃した疑いが記されています)、ルネサンス以降、西洋の文化を語る時、非西洋からの文化的影響というものも考慮しなければ、非常に視野の狭いものになってしまう危惧があります。

実際、アラビア生まれの代数学やインドの記数法を用いたアラビア数字そしてインド生まれの零「0」を否定したら、ヨーロッパ近代の数学や科学は成り立たないでしょう。

また、17世紀生まれのロックと、ほぼ同時期を生きたライプニッツは、中国の古典を読み、二進法を考え出したとも言われています(『世界大百科事典』、平凡社、「爻(こう)」の項、参照のこと)。

そして、また、フロイトが述べた「無意識」に関する事柄は、フロイトが生まれる前に、すでに、18世紀後期に生まれたショーペンハウアー(仏教の影響が大きいとヨーロッパでも認められている)が述べていることを、フロイト自身も認めているそうです(『西洋哲学の系譜』、晃洋書房、311p参照のこと)。

最後に、『言葉と物』でフーコーが、ヨーロッパ的な≪知≫の変遷を語る時、ほとんど、ヨーロッパ内部の視点しかないことに、博識なフーコーではありますが、視野の狭さを感じざるを得ません。

「…さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば--そのときこそ掛けてもいい、人間(引用者注・フーコー的な近代ヨーロッパ的≪知≫の人間)は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと(『言葉と物』の最後の文章から)」。

【自身のサイト及び自著】
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/sh.thesis.hp-index.html
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/sh.review.hp-index.html
佐々木 寛=著、『日出づる国の民 …哲学論文評論集…』、新風舎、2005年。
ISBN 4-7974-4955-1 C0010 ¥1500E

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「随 想 録」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/essay-page.html
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