エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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アメリカの人種問題

 おそらく、アメリカ国内における人種問題は、今なお未解決の問題であろう。欧米の白人が、何世紀にもわたり、黒人を奴隷とし、売買してきた歴史上の汚点が、今もなお、尾を引いているのは、確かである。

 だからこそ、最近、過去の奴隷制や先住民迫害に対して、いくつかの州議会では謝罪決議が行われ、さらには連邦議会でも、同じような反省の動きが出はじめている。

 そして、希望はある。黒人と白人の混血である、バラク・オバマ議員が、アメリカ大統領候補として立候補し、かつ有望な存在として、認められつつある(下記サイト参照のこと)。

BARACK OBAMA 2004
http://www.geocities.jp/metropoleclub/p/obama.html
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伊藤一長・長崎市長

 伊藤一長・長崎市長が、暴力団員に銃殺されました。哀悼の意を表したいと思います。

 日本の暴力団の幾つかは、組織的テロ実行国家である北朝鮮と、北朝鮮が製造する覚醒剤や麻薬そして銃器類等の密輸などで、密接な繋(つな)がりを有しています。

 平和活動に貢献した象徴的な市長であればこそ、政治的な意図を持った、暗殺の可能性も有るのではないかと、考えています。
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「東洋から西洋への影響(ノート)」

 七十数年前に、書かれた論文の、増補・改訂版です。『中国思想のフランス西漸(1・2)』、後藤末雄=著、矢沢利彦=校訂、平凡社、2003年。たいへん独創的な論文だと思います。ヨーロッパがアジア(特に中国)へ「進出」した当初から、中国思想や文化が、ヨーロッパへと「逆に」伝播したことを、論述しています。
 この論文の内容を、私は、最近まで知りませんでしたが、実は、私も同様の論点で、ヨーロッパがアジアを「侵略」した時から、私の場合は、特に仏教思想や哲学が、ヨーロッパへと「逆に」伝播したのではないかという自説を展開しています。
 私の説をも、補強する証拠が、この論文には、いくつも存在します。たいへん立派な、学問的業績だと考えます。先達(先学)に敬意を表したい。
 以下は、『中国思想のフランス西漸(2)』、後藤末雄=著、矢沢利彦=校訂、平凡社、2003年の、本文からの抜粋です。

 古来、中国では完全に信仰の自由が認められていた。中国には祖先教、儒教以外に仏教、喇嘛教が信奉され、かの基督教は、一六九二年康熙帝時代に公許された。「信仰の自由の使徒」と呼ばれたヴォルテールはこの点において、全く中国の法制に魅惑されたのである。殊に雍正帝は「日本における基督教徒の叛乱」に鑑み、宣教師の異教不認容主義が内乱を醸成することを憂慮し、断然宣教師を駆逐した。この皇帝こそ政治と信教とを識別し、全然この両者を分離することが出来たのであった。換言すればヴォルテールの理想は、中国皇帝によって実現されたのである。それ故、彼は雍正帝の宣教師に与えた勅言を賛美し、帝をもって「神が人間に与えた名君のひとり」とまで激賞したのである。
 私の列挙した中国文明の特徴、道理の尊重、迷信の絶無、賢明な専制政治、法制に現われた仁愛の観念、道徳の奨励、平等の精神、信仰の自由は、皆ヴォルテールの精神であり、その提唱であった。そして中国思想がヴォルテールの生前から耶蘇会士によってフランスに西伝されたこと、また彼が著書中で中国の文物制度を賛美すること、殊に彼の提唱の多くが中国思想と合致することに立脚して、この社会哲学者の意識中に中国思想の影響を認めるものである。(122pより)

 引き続き、前掲書からの、抜粋です。

 かくの如く中国文化はフランスに紹介され、百科全書家に接触すると同時に、フランスの学会に進出して遂に支那学が成立し著名な中国学者を生じ、中国人をもってエジプトの植民なりと断定する暴論まで、学会の大問題をなしたのであった。それ故、ルイ十四世がフランス耶蘇会士を中国に差遣した学問的大命が完全に成功した許りでなく、中国とフランスとの思想的接触はフランス文化そのものの革新に資益したのであった。恐らくルイ十四世は、かかる結果を来たそうとは夢にも思わなかったであろう。実際、この大王は学問を愛してこれを保護しながら、学問の進歩によって人知が進歩し、延いて人間生活の革新を促すべき事理を理解していなかったのである。(306pより)

 学問の進歩が重要なのは、まったく同感です。中国の「易姓革命」思想も、フランス革命の思想的背景に、有るのかも知れません。

 そして、今度は、『失われた発見』、ディック・テレシ=著、林大=訳、大月書店、2005年からの、抜粋です。

 …中世にアラビアの学者たちはギリシア人の写本を捜し求め、ペルシアのジュンディシャプールとイラクのバグダッドに学芸と翻訳の機関を設置した。西洋の歴史家は、この学者たちが中国やインドからも写本を集め、独自の科学を創造したということをあまり認めたがらない。
 学問はカイロに広がり、イスラム教徒の帝国がヨーロッパに拡大するにつれて、スペインのコルドバとトレドに広がった。一二世紀にキリスト教徒がトレドを奪還すると、ヨーロッパの学者たちはイスラム教徒の文書に群がった。学者たちはアラビア人の文書なら何にでも興味をもった。ギリシア人の著作の翻訳だけでなく、アラビア人独自の著作や、ほかの文化圏の写本のアラビア語訳にも。古代世界の科学的知見の多く――ギリシア、バビロニア、エジプト、インド、中国のもの――が、スペインを通して西洋世界に伝えられた。一六世紀はじめにダマスカスとパドヴァの間でアラビア語の写本が大量に運ばれていたことを、ジョージ・サリバは突き止めているし、ヨーロッパの図書館で、アラビア語で書かれた、科学に関する文書が次々に再発見されている。また、ルネサンス時代のヨーロッパの学者にアラビア語に通じていた者が少なくなかったことをサリバは文献で裏付けている。
 その一例として、パドヴァで学んだコペルニクスがいる。…(15pより)

 引き続き、前掲書から引用します。

 …ヨーロッパ文明のルーツはアフリカ-アジア文化圏にある。ギリシア人はこのことを知っていて、それについて書いており、青銅時代さらには鉄時代にギリシアにあったエジプト人の植民地のことを語っている。ギリシアの偉大な知性は、たとえば、ピュタゴラス、デモクリトス、さらにはプラトンまでエジプトに旅し、エジプトの思想と知識をもちかえっている(自分の数学の才能はピラミッドの陰で磨かれたと認めるデモクリトス自身の文章が残っている)。ギリシア人は、エジプトに負うところがあることを認めていた。この「古代モデル」によれば、ギリシア人文化は紀元前一五〇〇年ころにエジプト人とフェニキア人による植民地化の結果、興ったのであり、ギリシア人は近東の文化から多くのものを採り入れつづけた。それは古典・ヘレニズム時代のギリシア人の常識だった。古代モデルは、ルネサンスから一九世紀までのヨーロッパ人にも受け入れられていたとバナールは書いている。ヨーロッパ人はエジプトに魅了されていたとバナールは言う。
 数世紀の間、ヨーロッパ人は、エジプトが文明のゆりかごだと考えていた。状況が変わりはじめたのは一九世紀のことだ。このころ、キリスト教の護教論者たちがエジプトの汎神論を気にかけ、人種的純血の思想がロック、ヒュームら、イギリスの思想家の間に根を下ろしはじめた。こうして、一九世紀の前半に「アーリア・モデル」が生まれた。この見方は、エジプト人の植民地が存在したことを否定した。さらに、19世紀の終わりころに反ユダヤ主義が高まると、アーリア・モデルの提唱者はフェニキア文化の影響も否定した。(12p~13pより)

 ちなみに、耶蘇(イエズス)会士は、西洋科学として地動説を、乾隆帝(けんりゅうてい)に教えているのですが、最近の研究によると、これまで、「コペルニクス革命」とまで言われてきた、ギリシア以来の天動説から地動説への革新が、実は、コペルニクスによるアラビアの学者からの剽窃である可能性が高いのです。
 さらに、『失われた発見』、ディック・テレシ=著、林大=訳、大月書店、2005年からの、抜粋。

 コペルニクスは、当時利用可能だった数学を用いて、この新しい惑星系像を組み立てることができたのであり、コペルニクス革命は、エウクレイデス〔ユークリッド〕の『原論』やプトレマイオスの『アルマゲスト』のようなギリシアの古典を新たに創造的に応用することによって成し遂げられたと考えられていた。ところが、この考えは、一九五〇年代終わりに崩れはじめた。ブラウン大学のオットー・ノイゲバウアー、ベイルートのアメリカン大学のエドワード・ケネディ、シカゴ大学のノエル・スワードロウ、コロンビア大学のジョージ・サリバが、コペルニクスの数学を再検討した。
 その結果、天文学を革命的に変えるためにコペルニクスは、古代ギリシア人が考えだしたのではない定理を二つ必要としたということがわかった。ノイゲバウアーは、こんな問題を考えた。コペルニクスは、こうした定理を自分で考え出したのか、それとも、ギリシア以外の何らかの文化から借りたのか。一方、ベイルートで研究していたケネディは、アラビア語で書かれた紀元一三五〇年より前の天文学の論文を発見した。この文書ではなじみのない幾何学が述べられていた。ケネディは米国を訪れたときに、それらをノイゲバウアーに見せた。
 ノイゲバウアーは、即座に文書の重要性に気づいた。そこにはコペルニクスによる月の運動のモデルとそっくりな幾何学が述べられていた。ケネディが見つけた文書は、一三七五年に死んだダマスカスの天文学者、イブン・アル・シャーティルが書いたものだった。イブン・アル・シャーティルのさまざまな仕事のなかに、コペルニクスが用いた定理の一つがあった。それは、もともと別のイスラム天文学者、ナシール・アル・ディーン・アル・トゥーシーが考えだしたものだった。コペルニクスより三〇〇年ほど前に生きた人である。
 今ではトゥーシー対と呼ばれているこの定理で、プトレマイオスなど古代ギリシアの天文学者たちを悩ませて以来、何百年もつづいていた問題が解決した。それは、円運動から直線運動がどのように生じうるかということだった。こんなことを思い描いてみよう。大きな球の内側に、その半分の大きさの球があり、小さいほうは大きいほうに一点だけで接している。トゥーシー対の定理によると、大きな球が回転し、小さな球が逆向きに倍の速さで回転すれば、小さな球は大きな球の直径に沿って振動する。天球を適当に配置すれば、どのように周転円が従円のエカントのまわりを一様な速さで運動しうるかが、この定理で説明できる。今や、天球がその中心を通る軸のまわりで一様な速さで運動すると想定することで説明ができた。これでプトレマイオスの体系の落とし穴を避けることができる。大雑把なたとえとしては、車輪を回しながら上下に動く、蒸気機関車のピストンを考えればいい。
 コペルニクスの体系に見いだされるもう一つの定理は、一二五〇年より前にこれを唱えた科学者、ムアイヤド・アル・ディーン・アル・ウルディーにちなんで、ウルディー補題と呼ばれる。これは、長さの等しい二本の線分が、方向がそろっていてもいなくても、ある直線から同じ角度で延び、線分のむこう端が別の直線で結ばれていれば、この二本の直線は平行であるということだ。二本の線分の方向がそろっているなら、四本の線は平行四辺形を形づくる。
 コペルニクスは著作のなかでウルディー補題の証明を述べていないが、それは、すでにアル・ウルディーが証明を発表していたからだろう。コロンビア大学のジョージ・サリバは、コペルニクスがこの定理の発見者の名を挙げなかったのは、一六世紀のヨーロッパではイスラム教徒の評判がよくなかったからだろうと推測する。
 サリバの言葉を借りれば、ウルディー補題もトゥーシー対も、「[コペルニクスの]天文学に本質的に組み込まれており、これらを取り出して、なおコペルニクスの天文学を無傷のまま残すことは考えられない」。
 …中略…
 地図の版元は、剽窃者をわなにかけるために地図に架空の島などを挿入することがある。コペルニクスは、発見者の名を挙げないでアル・トゥーシーの定理を借用したのか。動かぬ証拠はないが、コペルニクスの数学は、そうなる必然性のない細かい点でアル・トゥーシーのとそっくりなところがあり、その点で怪しい。どんな幾何学定理にも、それを発見した人が自由に選んだ文字や数字で標識づけされるさまざまな点がある。記号の順序や選択に必然性はない。ドイツの科学史家、ヴィリー・ハルトナーは、コペルニクスが幾何学的な点の表示に用いた記号はアル・トゥーシーの表記法とそっくりだと指摘している。つまり、アル・トゥーシーが「アリフ」の文字で表示した点を、コペルニクスはAで表示しており、さらに、アラビアの「バ」の文字で表示された点はBでという具合に、コペルニクスは、それぞれの点を、その標識として使われたアラビア文字に相当するローマ字で表示している。たんに標識のなかに同じものがあるというわけではない。ほとんどすべて同じなのだ。(5p~7pより)

 上記の引用などで、ヨーロッパがルネサンス期から、アラビア経由でエジプトに起源のあるギリシアの古典と、インドなどの数学も取り入れて独自に発展させたアラビアの学問を、貪欲に取り入れた様子が分かります。
 その上、1500年代以降、ヨーロッパからイエズス会士などの西洋人が直接、日本や中国まで来て、ヨーロッパ本国に情報を送っていた事実があります。それは、後藤末雄=著、『中国思想のフランス西漸』を、読むと良く分かります。
 おそらく、中国からは、国教の儒教に関する思想が多く、日本からは、大乗仏教に関する哲学や思想が、ヨーロッパへと伝わったものと考えます(インドでは大乗仏教は廃れていますから…)。
 それから、ロックは、一時期、オランダに亡命しているのですが、ちょうど同じ頃、ライプニッツも、近くに住んでいたらしいのです(『人間知性新論』の冒頭で、ライプニッツ自身が、そのような事を、ほのめかしています)。
 そして、ロックとライプニッツがオランダに居た、その数十年前から、オランダは、日本の長崎に、商館を設けています。ちなみに、ライプニッツは、中国の古典、『易経』から、二進法を考え付いたというエピソードも、『世界大百科事典』(平凡社)に載っています。
 以上からも、分かるように、東洋の哲学・思想・宗教(仏教・儒教など…)が、西洋へと伝わり影響を及ぼしたことは、間違いないものと考えます。
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