エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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ハイデッガー、『存在と時間』 & フーコー、『言葉と物』

ある人の奨めもあり、ハイデッガーの『存在と時間』(ちくま学芸文庫)と、フーコーの『言葉と物』(新潮社)を、ここ何ヶ月かの間に読みましたが、哲学の存在論としては、どちらも、存在とは何かという問いに、答えることが出来ていないというのが、率直な感想です。

ハイデッガーの『存在と時間』では、冒頭部分で、「古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている(19p)」、と述べていますが、結局、『存在と時間』では、それが出来ていません。

また、フーコーの『言葉と物』では、「われわれの反省の天空には、ひとつの--おそらくは到達不能の--言説が君臨している。それは、存在論であると同時に意味論でもあるような言説なのだ。構造主義は新たな方法ではない。それは、近代の知の目ざめた不安な意識にほかならない(229p)」、とも述べています(おそらく、ハイデッガーの『存在と時間』が念頭にあるのでしょう)。

端的に言えば、構造の最小要素の概念化こそ、存在の意味の概念化だと、言い換えることも可能でしょう。

私という存在が、存在とは何かを問う時、問うこと自体、いつもすでに(あるいは、つねにすでに)存在と関わりがあることは解ります。そこでハイデッガーは、この問いは循環論になるのではないかと危惧するのですが、これは循環論ではなく、自己言及にならざるを得ない問いなのです。

自己言及の場合、矛盾になる場合と、ならない場合があります。たとえば、「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」場合、そして、「この文章は9文字だ」という場合などです(後者では矛盾は無く字義通りです)。

存在とは何かを概念的に明確にする場合、その概念も存在しているものですから、存在の概念と存在が、同じ意味にならなければなりません(要するに字義通りなら矛盾は無い)。

ここで、存在とは何かを概念的に言表すると、それは、「関係し、変化している事柄」であると、明確に言えます。このことは、数年前から私自身のサイトに掲載している哲学の論文や自著の中でも、明確に述べています。仏教的に言えば、縁起および無常が、存在の意味なのです。すなわち、色即是空。

このあたりのことが、十分に〝会得〟できれば、道元が、『正法眼蔵』(増谷文雄=訳注、角川書店)の「有時」の巻で、「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり。この道理に明星出現す、如来出現す、眼睛出現す、拈華出現す。これ時なり、時にあらざれば不恁麼なり(第一巻、209p)」と、言ったことも理解できるはずです。

それから、最近、非西洋の≪知≫について述べている、ディック・テレシの『失われた発見』(大月書店)なども読みましたが(はじめの部分で、コペルニクスがアラビアの学者から剽窃した疑いが記されています)、ルネサンス以降、西洋の文化を語る時、非西洋からの文化的影響というものも考慮しなければ、非常に視野の狭いものになってしまう危惧があります。

実際、アラビア生まれの代数学やインドの記数法を用いたアラビア数字そしてインド生まれの零「0」を否定したら、ヨーロッパ近代の数学や科学は成り立たないでしょう。

また、17世紀生まれのロックと、ほぼ同時期を生きたライプニッツは、中国の古典を読み、二進法を考え出したとも言われています(『世界大百科事典』、平凡社、「爻(こう)」の項、参照のこと)。

そして、また、フロイトが述べた「無意識」に関する事柄は、フロイトが生まれる前に、すでに、18世紀後期に生まれたショーペンハウアー(仏教の影響が大きいとヨーロッパでも認められている)が述べていることを、フロイト自身も認めているそうです(『西洋哲学の系譜』、晃洋書房、311p参照のこと)。

最後に、『言葉と物』でフーコーが、ヨーロッパ的な≪知≫の変遷を語る時、ほとんど、ヨーロッパ内部の視点しかないことに、博識なフーコーではありますが、視野の狭さを感じざるを得ません。

「…さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば--そのときこそ掛けてもいい、人間(引用者注・フーコー的な近代ヨーロッパ的≪知≫の人間)は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと(『言葉と物』の最後の文章から)」。

【自身のサイト及び自著】
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/sh.thesis.hp-index.html
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/sh.review.hp-index.html
佐々木 寛=著、『日出づる国の民 …哲学論文評論集…』、新風舎、2005年。
ISBN 4-7974-4955-1 C0010 ¥1500E

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「随 想 録」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/essay-page.html
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この記事のコメント

何で近代哲学を語るのに仏教とか洋の東西とか言わなきゃならんのよ。
視野の狭さ?
西洋/東洋という枠組みしか見えんのか。
東洋人のくせに。

サイードの『オリエンタリズム』を読んで反省した方がいい。
2006-03-30 Thu 16:36 | URL | #9uhi/ixo[ 編集]
「東洋人のくせに。」という君の言い草にこそ、君の偏狭な考えが良く現われている。君は、よくよく自省した方がいい。
2006-04-01 Sat 16:09 | URL | 佐々木 寛 #-[ 編集]

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