エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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【認識論関連】 ロック&ライプニッツ&コンディヤック

ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させたのは、コンディヤックでしょう。コンディヤックと比較して、ライプニッツの認識論には、説得力が有りません。下記は、『人間認識起源論』からの引用です。

「スコラ学者やデカルト主義者たちは、人間の認識の起源も生成過程も知らなかった。というのも、彼らは生得観念の原理や知性に関する曖昧な概念から出発したのであるが、そうしたものはこの[認識の起源や生成の]発見と何の関係も持たないからである。これに対して、ロックは感官から出発したので、この仕事をもっと巧みになし遂げた。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、244pより)
「記号を使用することが徐々に魂の様々な働きを開発し、今度は逆にその開発された魂の働きの方が記号を完成させ、それを使用することに慣れさせていった。この両者が互いに助け合うということは、我々の経験が証明するところである。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、 19pより)

さて、幾何学における、「線とは、幅のない長さである」、などを例に上げて、これを経験に依ることのない概念だと断定することには無理が有ります。何故なら、我々は経験上、実際に、ある物の長さを物差しなどで測っている時には、その幅や厚みのことを無視(幅や厚みを無いものと仮定)しているからです。要するに、経験に依らないのではなく、逆に、長さを測るという経験から、「幅のない(幅を無視した)長さが、線として」、定義されたと考えるのが妥当です。
また、「仮に、今この時に、ある人が、ここにコップが有りながら、無いと言えば、それは虚言(ウソ)であると同時に、論理的には矛盾でもある」というのは、日常的に、自然言語を使用する中で、経験し得ることです。要するに、矛盾という論理も、自然言語の虚言(ウソ)から導かれ得るものです。
さらに言えば、言語が生得的ならば、言語を持たなかった野生児の実例を、どのように説明するのか? という問題も有ります。
ちなみに、以下に引用した、フランスのアベロンの野生児の例、および上記で引用した、『人間認識起源論』の出版は、ライプニッツ死後のことですから、ライプニッツは、それらを考慮していないことになります。

「親から遺棄されたり、野獣にさらわれたりして動物たちとともに生活する子供は物語によく登場するが、実際に発見された子供はヨーロッパを中心にして数十例の報告がある。とくに有名な記録は、18世紀末フランス、アベロン地区コーヌの森で発見され教育者イタールにより訓練された11~12歳の少年ビクトールVictor(アベロンの野生児)、20世紀初めにインド、ミドナポルの森でオオカミに育てられたおよそ8歳と2歳の2人の少女(アマラとカマラ Amala & Kamala)などの教育訓練・養育の記録で、広く公刊され、学問的にも価値が高い。これらの野生児はいずれも発見されたときには言語をもたず、人間としての感情に欠け、野生としての行動が特徴であった。」(『日本大百科全書』、「野生児」、小学館より)

補足:ライプニッツは、『人間知性新論』において、知的観念や概念は、感覚に由来するものではなく、生得的だと主張している。その理由として、幾何学における公理(すなわち、「線とは、幅のない長さである」など)を例に上げ、これを経験に依らない概念だとしているのだが、上記で私が述べたように、これは経験から習得的に得られる概念である。また、矛盾という概念も、自然言語(規約)習得過程で、虚言(ウソ)の存在から、同様に後天的に得られるものである。依って、ライプニッツの説には、説得力がない。

追記:私の認識論は、ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させた、コンディヤックの認識論を、さらに一歩、前進させ得たものだと自負しています(実は、ロック以前に、仏教哲学が、五官および六根による知覚を重視していますが…)。要約すると、認識は、感官からの経験によると述べたのがロックで、それに言語(記号)の重要性を付け加えたのが、コンディヤックです。さらに私は、それらに加え価値の重要性と、その三つの要素の整合性が重要だと考えています。以下に引用。

【認識論】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

一般的に認識というものは、対象となる事実経験(対象事実)と、論理一般(名辞:記号、概念:観念、論理:構造)の無矛盾性と、価値一般(正と負と中立の価値および全的価値と個別価値など)との妥当性という、三種の要素の整合性によって齎(もたら)されるものと考える。
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