エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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空間および空

 幾何学の公理は、私が幾度か述べたように経験に由来すると考えています。要するに我々は、「経験的に、長さを測る時には幅を無いものと仮定」していますから、「幅の無い長さ」という線の定義は、そこからのものだと考えられます(もう一つ付け加えるなら、細く伸びた髪の毛や糸のような観念(イメージ)と、先に述べた「幅の無い長さ」という概念との複合されたもの〔観念:概念〕だとも考えられます)。
 さて、長さは、換言すれば、距離でも有ります。人が両手を広げた長さを「一尋(ひとひろ)」とも言うそうですが、たとえば真っ暗な部屋の中に居るとして、そこで部屋の壁沿いに、一尋(ひとひろ)、二尋(ふたひろ)…と、自らが動き、測れば、真っ暗でも部屋の中の、その方向の距離が測れます。当然、この場合、自らの体が動けるのでなければ、その距離は分かりません(この場合、動けるというのは、経験できるということでも有ります)。
 要するに、幾つかの向き(3次元)に距離(一尋の回数:数値)を考えれば、広がりのある空間(座標)をイメージできます。ただし、ここには、長さを測れるという経験的な要素が含まれていることを忘れてはならないと考えてもいます。参考までに、以下に、少し引用します。

 「…ニュートンにとって空間は、いかなる事物にも先立って存在し、いっさいの事物がそのなかで生起する〈容器〉のごとき概念として理解されていたことは確かであろう。デカルト的な三次元座標によって表現されるにしても、空間は三方向に一様に広がり、しかも、経験的事物とは無関係に存在するのである。その意味では、空間は、存在論的にいっさいの事物に先行するものであり、その点で〈絶対的〉でもあることになる。一方これに対して、アリストテレス的な関係論的解釈を洗練徹底し、ニュートンの絶対主義的な空間解釈と対立したのはライプニッツであった。ライプニッツは、事物の存在に存在論的に先立つ空間という考え方を否定し、事物の存在に伴って初めて現れるさまざまな関係(順序、位置など)がわれわれに空間という概念を与えるにすぎないと考えた。これを空間の関係主義的解釈と呼んでおこう。」(『世界大百科事典』、平凡社、「空間」の項より)

 上記で、引用したように、ライプニッツが空間について、相対的な関係(運動および経験を含む)を重視するというのは、幾何学の公理が経験に依らない知識だとする考えとは、首尾一貫しない説明です。空間が、相対的な関係に依るなら、幾何学の公理も同様だと、ライプニッツは考えるべきだったと、私は思っています。
 また、ここで、ニュートンの、「経験的事物とは無関係に存在する」、空間概念というのは(任意に基準点と事物の運動を設定できる)思考実験をする時に、「経験的な事物を無いものと仮定した」、空間だとも考えられますが、これは、「長さを測る時に幅を無いものと仮定したこと」と、同様のことだと考えることもできます。要するに、ニュートンの言う、絶対空間の絶対とは、多分に修飾語的なものにしか思えません。

 竜樹、『中論』、「八不」(『中論』、三枝充悳=訳注、レグルス文庫、参考)より。

  不生亦不滅(不生にして亦た不滅) 生ずることもなく、また、滅することもない。
  不常亦不断(不常にして亦た不断) 常住でもなく、また、断滅でもない。
  不一亦不異(不一にして亦た不異) 同一であることなく、また、異なっていることもない。
  不来亦不去(不来にして亦た不去) 来ることもなく、また、去ることもない。

 上記引用は、空(くう)について書かれたものです。この思想の背後には、近代科学のエネルギーに近いものが、指し示されているように考えています。すなわち、真空妙有とは、固定的実体の無い真空の純粋なエネルギーのような存在についての確信とも言えます。ちなみに、広辞苑によると、エネルギー保存の法則とは、「「外部からの影響を受けない物理系(孤立系)においては、その内部で、どのような物理的あるいは化学的変化が起っても、全体としてのエネルギーは不変である」という法則。無からエネルギーを創造し得ないことを示す、物理学の根本原理の一」と有ります。そうだとすると、無から宇宙が生まれたとするような、ビッグバン宇宙「開闢」論などは、エネルギー保存の法則と、明らかに矛盾することになるとも考えています。

カシミール効果 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C
零点振動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E7%82%B9%E6%8C%AF%E5%8B%95

 追記:幾度も述べましたが、我々は「経験的に、ある物の長さを測る時には、幅を無いものと仮定」していますから、「幅の無い長さ」という線の定義は、そこからのものだと考えられますし、もう一つ付け加えるなら、細く伸びた髪の毛や糸のような観念(イメージ)と、先に述べた「幅の無い長さ」という概念との複合されたもの〔観念:概念〕だとも考えられます。

 要するに幾何学の公理とは、このように経験に由来し、経験を基に仮定された、議論の前提となる、規約なのです。
 
 言葉や規約が生得的(先天的)でないことは、以前紹介した、言葉を持っていなかったアベロンの野生児などの実例でも分かりますし、また、我々が、母親などに育まれながら、後天的に言葉を、赤ちゃん言葉から習得してきたのは確かでしょう。そして、我々が、幼稚園や小学校に入る前には知らなかった言葉を、その後、少しずつ習得し、発達してきたことも、経験された事実ではないでしょうか…。

 ただし、言葉の習得以前に、習得できる能力を有する、“識”(シキ:ビジュニャーナ)が先天的(生得的)なものとして存在していることは確かです。そして、それが、経験を成り立たしめる重要な要素であると言えます(なお、この場合の、“識”には、意識と無意識も含まれます)。ちなみに、清水の舞台で有名な京都の清水寺は、仏教唯識派(法相宗)の寺で、ライプニッツが生まれる、800年以上前に開山されています(イギリス最古のオックスフォード大学より古く、唯識思想の研究教育機関としての役割もあるのだと思います)が、その唯識思想において、いわゆる無意識は、末那識(七識)に含まれるものでしょう。そして、唯識的に言えば、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識などの五感(五識)、および、意識(六識)と末那識(七識:無意識)をも、成り立たしめるのが、阿頼耶識(八識)であると考えています。

 すなわち、「我々の“識”は、我々自身にとって、先天的」なものなのです。
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