エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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如月さんの掲示板での議論を転載(3)

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承諾が得られましたので、如月さんの掲示板で行われた議論を、以下に転載します。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi

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ライプニッツのホッブス批判 投稿者:如月 投稿日:2009/11/14(Sat) 21:06 No.18363

 ホッブスを批判したライプニッツ初期の著作『対話――事物と言葉の結合、ならびに真理の実在性についての』(1677年)のなかに、定義、記号、真理の所在などについていろいろとおもしろいことが書いてありましたので以下に引用・紹介してみます(佐々木能章氏訳、『ライプニッツ著作集』第八巻、工作舎)。なお、この著作は非常に短いものですから、ご興味ある方はオリジナルもご参照ください。

     *     *     *

A ある思考が真か偽かになるには原因がなければならないとすると、この原因は一体どこに求められるべきなのだろうか。
B 事物の本性の内にだと思います。
A 君自身の本性から発するとしたらどうだろう。
B それでも、そこからだけということはありません。というのも、私の本性と私が思考している事物の本性とに基づくなら、方法に正しく則って歩を進めて行くことによって、当面問題となっている命題を必ずや論証し、あるいはその命題が真なることを見出し得るはずだからです。
A 見事な答えだ。でもまだ厄介なことがある。
B それは何でしょう。是非教えてください。
A 学者の中には、真理は人間の恣意(arbitrium)から生ずる、つまり名称や記号[の付け方]から生ずると考えている人がいるんだ(訳註:ホッブスのこと)。
B 何とも奇妙な考え方ですね。
A しかし彼らはその考え方を、こんな具合に証明している。まず、定義とは論証の基本ではないだろうか。
B その通りです。定義を幾つか互いに結び付けるだけで証明されるような命題もあるくらいですから。
A するとそのような命題の真理性は定義に依存していることになるね。
B おっしゃる通りです。
A ところが、定義はわれわれの恣意に依存している。
B どうしてそうなりますか。
A ではどうだろう。ある図形を示すのに「楕円」という言葉を用いるのは数学者たちの恣意によるのではないだろうか。また、「キルクルス(円)」という言葉にその定義が表している意味を宛てるのはラテン人の恣意によるのではなかったかな。
B だからといってどうなりましょう。言葉がなくても思考することはできますよ。
A しかしそこには[言葉とは]別の符号(signum)がなければならない。考えてもごらん。君は数を表わす符号なしに算術の計算ができるかい。
B 何だかわからなくなってきました。そもそも、推論にとって記号や符号がこんなにも必要なものだとは思ってもいなかったからです。
A では、算術の真理は何らかの符号や記号を前提にしているのだね。
B そう認めざるを得ません。
A となると、それは人間の恣意に依存するということになるのではないかな。
B なんだかすっかりだまされてしまったような気がします。
A これは私の考えではなく、かのぴか一の切れ者が言ったことだよ。
B しかし、真理が恣意的であり名称に依存するなどということを確信するなんて、正気の沙汰とは思えません。だいたい、数学はギリシア人にとつてもラテン人にとつてもドイツ人にとっても同じものなんですから。
A 君の言う通りだよ。けれども、困難には決着をつけなければならないね。
B 一つだけ腑に落ちないことがあります。どんな真理でも、心の中で言葉や他の符号と結び付けることなしには認識も発見もされないということは、一応わかったのですが、もうひとつはっきりしません。
A 確かに、もし記号がなければ、われわれは何ものをも判明に思考できないし、推論をすることもできないわけだ。
B しかし幾何学的図形を研究していて、その図形を精確に考察することだけで真理を見つけ出すことがしばしばあります。
A それはそうだけど、ただそのときには図形が記号とみなされているということを忘れてはいけないよ。だいたい、紙の上に描かれた円が本当の円だというわけではないし、またそうである必要もない。われわれがそれを円とみなすだけで十分なんだ。
B でもそこには円と何かしら類似したところがあります。恣意的であろうはずがありません。
A その通り。だからこそ図形は記号としては最も有効なわけだ。だけど、例えば十という数と「10」という記号との間にはどんな類似性があると思うかね。
B とりわけ記号がうまく考え出されているときには、記号同士の間にある何らかの関係や秩序は事物の内にあるものです。
A いいだろう。しかし[関係に先立つ]第一の[記号としての]要素そのものは事物とどんな類似性があるのだろうか。例えば、「0」と無とが、ふるいは 「a」[という記号]と線分とがどのように類似しているのだろうか。こう考えれば、少なくともこれらの要素においては類似性が一切必要ないということを、君も認めないわけにはいくまい。
(中略)
B でも見逃すことのできない点があります。推論をするため記号を用いることができるとするなら、その記号の内には何らかの複雑な位置関係や秩序があります。これが事物のあり方に適合しているのです。一つ一つの言葉が事物と適合していることはない(これが適合しているならそれに越したことはありませんが)としても、少なくとも言葉の結び付きや変化の仕方は事物の側と合致しているのです。この秩序は、言語によってそれぞれ異なってはいても、何らかの仕方で互いに対応しているのです。こう考えれば、困難から抜け出る希望も見えてきます。というのも、記号[の選定]自体は恣意的であっても、その記号の用い方や記号同士の結合には恣意的でないものがあるからです。つまり、記号と事物との間の一種の相応 (proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relatio)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。このために、どの記号を用いようとも、常に同じもの、等価値なもの、相応的に対応するものが出現してくるのです。しかし恐らく、思考するためには常に何らかの記号を使わねばならないでしょうね。
A お見事。君は困難からいとも鮮やかに、しかも完璧に抜け出したね。君の言ったことは、算法とか算術の解析とかが確認している通りだよ。数の数え方の場合、十進法を用いようと、あるいは誰かがしたように十二進法を用いようと、帰するところは常に同じだ。さまざまな仕方で計算したことを、その後に豆粒やその他の数えやすいもので確かめてみれば、常に同じことになるだろうね。解析の場面でも同様で、違った記号を用いた方が事物の違った側面(habitudines)をたやすく浮かび上がらすことがあるとしても、真理の基底(basis)は常に記号の結び付き方と配置の仕方の内にある。(以下省略)」(同書12-16頁)

スピノザが死んだ年 如月 - 2009/11/14(Sat) 23:20 No.18370

 この対話が書かれた1677年は、ちょうどスピノザが死んだ年ですね。ちなみに、その前年ロンドンからの帰路に、ライプニッツはスピノザと会い、対談しています。

記号がかかわるもの 如月 - 2009/11/15(Sun) 09:15 No.18428

 ライプニッツの記号ならびに表出の考え方について、増永洋三氏の『ライプニッツ』~「人類の知的遺産36」(講談社、1981年)から補足しておきます。

     *     *     *

 「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない。単純観念の真理は、この観念の表わす実在と恒常的な規則立った或る関係を保つことである。しかしこの関係は直感可能ではない。何故ならば絶対項が我々の達し得ぬところにあるのであるから。従ってかかる関係への信憑を、諸観念の整合性が合理的信憑たらしめるのである。このことは、我々にとって真理は観念にではなく、観念の関係に存する、ということにほかならない。それによって我々は、被造物としての我々の観点の制限から抜け出る。勿論我々は神と同一の観点はもち得ない。しかし我々は神の観念間に成り立つ関係としての真理にまで高まり得るのである。神が我々に真理を示す時、我々は我々の悟性のうちにある真理を獲得する。というのは、神の諸観念と我々の諸観念との間に、完全性と範囲に関して無限の差異があるとはいえ、両者は同一の関係において合致することは常に真であるから、それ故この関係のうちにこそ我々は真理をおかなければならないのである。
 ところで記号が表示する観念とそれらの観念の関係とが表わすものは何か。広義の観念は、感覚、イマージュ、概念を包含する。このうち、イマージュは感覚を類似によって表現する。しかし、概念がイマージュあるいは感 覚を表現するのは類似によってではない。円の概念は知覚される円に類似しない。経験主義者たちは、観念とイマージュを同一のものである、と仮定することによって思い違いをしている。イマージュが概念を構成するどころか、反対に概念がイマージュにその意味を与えるのである。我々は言葉又はその他の記号なしに考えることは出来ないが、それは補助手段にすぎない。
 それでは何故記号的思惟が、事物にではなく、我々が事物の代りにおいた記号にかかわりながら、その実り豊かさを少しも失わないのであろうか。それは、記号的思惟が、特殊な内容の把握にとどまることなく、宇宙と我々の理性を同時に秩序づける形而上学的メカニスムの一般法則にかかわるからである。記号的思惟はその形式的構成によって、物理学的と形而上学的とを問わず、一切の可能的経験の枠を構成するのである。「この世の人間には、諸存在の総体がどのような根拠によって、純粋な存在と無から生み出されるかを示す、事物のかくされた系列に達し得る望みはないけれども、しかし、観念の分析が真理の証明にとって必要とされるところへまでおし進められれば、それで十分である」。表出の理論は、実体間の相互表出にその存在論的基礎を有する。実体の各々は、それらの位置によって決定された系列の法則に従って自発的にそのはたらきを展開する。実在的因果性に対して、表出の教説はイデアルな因果性をおきかえるのである。」(同書26-7頁)

     *     *     *

 引用文の冒頭の「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない」という部分は、デカルト批判、さらには経験論批判につながる部分ですね。具体的な事象に関する観念をその対象もしくは内実としてとらえることは、ライプニッツの思想のなかでは不可能と考えられており、これは一方で代数的発想であると同時に、認識論的には、無意識を前提とした不可知論に支えられているわけですね。

記号と内実の並行関係 如月 - 2009/11/15(Sun) 10:22 No.18436

 ところで、記号とその内実あるいはそれが指し示すものがけして交わることがなくまた互いに浸透し合うこともなくどこまでも並行関係を保ちながら真理のあり方を開示するとなると、これは予定調和説のミニチュア版ですね。というか、予定調和説の提起者からすると、記号とその内実は、けして浸透し合ってはいけないということになるかともおもいます。
 ライプニッツの場合、これがそっくりそのまま認識論の論理と入れ子構造になっているのですね。

Re: ライプニッツのホッブス批判 佐々木 寛 - 2009/11/15(Sun) 22:57 No.18511

 「というのも、記号[の選定]自体は恣意的であっても、その記号の用い方や記号同士の結合には恣意的でないものがあるからです。つまり、記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。このために、どの記号を用いようとも、常に同じもの、等価値なもの、相応的に対応するものが出現してくるのです。」(如月さんの引用より抜粋)

 言葉や記号の意味が、一般化するためには、暗黙にでも、それが規約として認められなければならないし、そうでなければ、まったく誰にも通じない恣意的なものに、とどまるでしょう。如月さんが、引用した上記の部分は、ライプニッツが、コンディヤックに先立ち、記号の重要性を指摘していたと言える部分でしょうね(コンディヤックが知っていたか、どうかは別ですが…)。

 「引用文の冒頭の「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない」という部分は、デカルト批判、さらには経験論批判につながる部分ですね。」(如月さん投稿より)

 それは、どうでしょうか…。取り敢えず、いま、如月さんの掲示板の中だけの引用や投稿文から受け取れるところでは、こういう解釈も可能だと考えます。
 少し前の、「(如月さんの引用より抜粋)」からの再掲ですが、「つまり、記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。」というのが、ライプニッツの立場ですね。
 ですから、これは要するに、「絶対的なものの不可謬の直感」など必要なく(それは真理の基準を我々に提供しない)、「記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)」こそが、“真理の基礎”なのだという解釈の方が、整合的で妥当だと、私には思われます。また、そうでない場合は、ライプニッツの考えに、矛盾があると考えざるを得ません。

真理の直観の不可能性 如月 - 2009/11/16(Mon) 00:25 No.18520

 矛盾かどうかはわかりませんが、ライプニッツ的に考えれば、「絶対的なものの不可謬の直感」は、「不必要」なのではなく「不可能」なのです。なぜならそれは、人間の悟性には記号としてしか表出されないからです。したがって絶対的なものの直感が可能とするデカルトへの批判につながっていくのですね。ですから、増田さんが指摘しているのは、「不可能であるところの観念の明証を真理の基準にはできない」ということだとおもいます。
 ちなみに、ライプニッツにとって重要なのは、言葉や記号の意味が一般化するかどうかということではないとおもいます。彼が重視するのは、あらゆる事象が記号化されてわれわれに提示・表出されているという代数的な考え方ですね。仮に「意味」といっても、その「意味」そのものが結局は記号であり、「意味」による把握はトートロジーでしかないとライプニッツは考えるのではないでしょうか。つまり、A=Bが保証されるのはB=Aだからであり、これは結局A=Aにいきついてしまいます。ゆえにライプニッツは「A=A」というトートロジーの論理を非常に重視しています。

トートロジー 佐々木 寛 - 2009/11/16(Mon) 19:14 No.18609

 同語反復(トートロジー)と言うと、マイナスのイメージが付き纏いますが、それを言葉および論理の規約と考えた場合、非常に重要な意味を有することは間違いないでしょう。
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