エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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如月さんの掲示板での議論を転載(2)

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承諾が得られましたので、如月さんの掲示板で行われた議論を、以下に転載します。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi

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経験こそが概念から生み出されるものです。 投稿者:くまげん7 投稿日:2009/11/01(Sun) 11:51 No.17225

 初めまして。

 カントの純粋理性批判がもたらした業績を寛さんがまた暴発して無視しているようですね。
 空間というものは<人間が世界を認識する形式>です。
 ですから、人間が考える以上、経験には空間という形式がついて回ります。
 同じことを時間にもいえます。

 空間も時間も人間が世界を認識するための形式であり、この形式がどのような形式なのかを表現する形式をアプリオリ(先験的)には人間はもっていません。

 寛さんは経験の中で幅を写像して考えているから…とおっしゃられてますが、幅の無い線は存在します。点、線、面の順番で考えるからそんなことになるわけです。
 面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。その面が二つあった場合その間には線が生じます。この線には<幅がありません。>
 面が三つ交わったところには頂点ができます。この点には面積はありません。(そもそもが大きさがないのです。)

 これらのことは我々が知覚の限界として面、線、点、というカテゴリーをもっていることを示しています。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 佐々木 寛 - 2009/11/02(Mon) 19:16 No.17311

 こんにちは、くまげん7君

 「経験こそが概念から生み出されるものです。」(くまげん7君の投稿より)

 経験こそが、概念から生み出されるものという、くまげん7君の説は、「概念から経験が生み出された」と言い換えることができると考えます。ところで、広辞苑によると、哲学的に経験というのは、「感覚・知覚を基礎にして知的活動までを含む体験の自覚されたもの」と有ります。

 「面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。」(くまげん7君の投稿より)

 上記の引用で言う、「最初に認識する」や、「ものの見かけ」というのは、どういうことなのか? 普通、ものの見かけというのは、ものの外見のことで、見るという感覚から得られるものです。また、「面」というのは、常識的に言って、広がりのある平らなもののことでしょうが、広がりとか、平らというのも、経験的なものでしょう。そして、それらが、「最初に認識」されるとすれば、これは、経験論以外の何ものでもないことになります。

 ですから、「概念から経験が生み出される」という、最初の引用とは、正反対の意味になると考えます。くまげん7君は、自分で自分の言っていることが、理解できているのか、はなはだ疑問です。

みなさん、ありがとうございます。 如月 - 2009/11/07(Sat) 12:06 No.17738

 くまげん7さん、佐々木寛さん、○○○さん、興味深い投稿や回答ありがとうございます。
 経験と認識について私からもみなさんに教えていただきたいことがいろいろありますが(私自身は、当面の問題に関しては、とりあえず「経験」と「経験知」を分けて考えた方がよくはないかとおもったりしています)、小サイト内の↓「デイドロとモリヌークス問題」のページなどもご参照頂ければ幸いです。

http://www.furugosho.com/precurseurs/diderot/molyneux.htm

「経験知」についての補足 如月 - 2009/11/07(Sat) 17:52 No.17753

 それと、カントのことはきちんと勉強していないのでよくわかりませんが、私が「経験」と「経験知」を分けた方がいいのではないかと思うのは、経験という概念を無制限に拡大していくと、たとえば「Cogito ergo sum」という命題も、cogito(私は考える)という自己の経験もしくは体験に基づくものであり、経験による自己存在の確認だとなりかねないからです。
 もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。だから、人間のほとんどの知は経験によって明白になるもしくは体得されるものだとしても、「経験知」と呼べるものはその一部であるとした方がいいのではないかというのが、今、私が考えているアイデアです。もっとも、すると今度はいったいどのようなものが「経験知」なのかということになって、これはこれで難しいんですけど、まあ、身体的な技術なんかはそれに入るんじゃないかとおもっています。

数の概念もちょっとやっかいですね 如月 - 2009/11/07(Sat) 18:15 No.17756

 ついでにもう一つ私が感じている疑問を記しておきますと、たとえば、数の概念の把握が経験的なものか直感的なものかよくわかりませんが、大きな数の概念の把握を経験に帰することができるのかということですね。
 たとえば、「十」の概念であれば、あるものを1、2、3…と数えていった結果把握した経験による概念だといってもいいとおもいますし、「百」もそうかも知れません。でも、「万」とか「億」を、これと同じような意味において経験によって把握される概念といっていいのかどうか。もしその把握が経験によらないとすれば、それは何によるのかということですね。
 また、同じように考えていくと、「無限」というのもちょっとやっかいな概念ですね。だから「無限」なんて現実には存在しないんだと言っちゃってもいいんですけれど。

追風(おいて)に帆かけて 佐々木 寛 - 2009/11/07(Sat) 19:16 No.17763

 「もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。」(如月さん投稿より)

 如月さんは、心配性なんでしょうか…(笑)。ある経験から得られたものから、ある性質を抽象したり(長さ)、捨象したりして(幅)、ある概念を生み出し(線とは幅のない長さ)、さらには、生み出された概念を基に、他の概念との関係の中から、また新たな概念を生み出してゆくならば、そのような創造的な能力がある限り、我々の精神には、幸の限り無い、豊かな海が、広がってゆくのではないでしょうか…(さぁ、帆を、かけよう)。

金毘羅船々(こんぴらふねふね)、追風(おいて)に帆かけて、シュラシュシュシュ…(笑)。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/konpirafune.html

 一つずつでも、限り無く、加えるという、規約があれば、兆や京や垓の単位を越えて、可能性として、無限は考えられます(問題ありません)。

 「視覚作用の最初の瞬間には、多数の混乱した感覚印象を受けるにすぎず、それはただ時間とともに、また、私たちのなかで起ることについて反省を重ねるにつれて、次第に判断されるようになるのです。感覚印象を、それを惹き起したものと比較することをわれわれに教えてくれるのは、ただ経験だけであり、感覚印象は事物と本質的に類似しているようなものは何ももっていないので、純粋な約束事のように思われる感覚と事物の類比について教えてくれるのも経験です。」(下記リンク先の、如月さんのサイトより引用)

ディドロとモリヌークス問題
http://www.furugosho.com/precurseurs/diderot/molyneux.htm

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/11/21(Sat) 12:40 No.19213

 ものすごい遅いレスで申しわけありません。

 まず、あまりにも話をあいまいに考えすぎです。

 概念=定義とすれば、それが経験に先立たないのは明らかです。なぜなら、定義とはことばでされるものであり、私的ではなく社会的なものだからです。

 一方で経験とは個人的で肉体を通じて得られる「現象」を様々の方法で「記憶した結果」です。

 したことであっても覚えていなければ経験ではないのです。

 そのひっかかりを如月さんは「経験」と「経験知」という言い方で表していますが、それは体験=経験としてしまっているからです。体験は経験ではありません。

 そう考えれば「経験=経験知」であることがわかります。

 ならば、経験がどうして記憶できるのかということを説明しようとしたのがカントの「純粋理性批判」なのです。

 それは「人間が予め(先験的・アプリオリ)認識する形式をもっているから」と仮定しました。だから、その認識する形式を越えた概念(超越論)はもともと意味がないという結論をもってきたんです。

 ところが、なぜ、超越論はされてしまうのかについてカントは「馬鹿だから」みたいな答えしかしてません。それを超越論的批判が哲学の仕事だってカントは言うんです。

 実は概念は定義である。定義はことばであると最初に書きました。認識の構造は超越的ではないのですが、ことばの構造が超越的だからこそ超越論が生まれてくるのです。(経験してもいないことを在るものとして語れるのはことばの形式のせいなのです。)

概念と経験 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:30 No.19351

 くまげん7さん、ようこそ。先日来、概念と経験との関係がどうもすっきり腑に落ちないので、自分なりに以下のようにまとめてみました。まだ整理の途中ですので、不十分なところがあるかもしれませんが…。くまげん7さんの新しいコメントにつきましては、もう少し考えます(特にコトバとのかかわりのあたり)。

 ①ものさし、電話、TV、PC、USBメモリースティック
 これらに関しては、そうした道具的存在物およびその概念や観念がわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在し、その概念(機能)を知ることによってわれわれはそうした道具的存在物をそれと認識し、経験・使用する。

 ②山、海、砂漠
 ①と同様、これらの概念や観念もわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在するが、場合によっては、山中に生まれたり、海 辺に育ったりして、明確にそれと知覚する以前にわれわれはそれを体感・知覚することがありうる。その場合、概念形成は体感後に、体感をとおして行われると考えられる。またその際、たとえば山の概念を明確に形成するためには、山以外の場所を体感・経験し、それを相対化することが有効と考えられる。
 ただしたとえば山中に生まれ育ったのではない場合、はじめに遠くから山を見るなどして概念が先に形成され、後から実際に山を知る(体感する)ということはありうる。この場合は①と同じ。

 ③空間、時間
 これらは、山中に生まれ育った人にとっての山の概念形成と似ているが、われわれがそれから離れて相対化することができないことから、明確な概念形成は困難で ある。あるいは、考え方によっては、空間や時間の概念のなかにはつねにわれわれの実存が含まれていると見なすことができるかもしれない。

 ④痛み、空腹
 これらの身体的概念は、体感・経験が先に生じ、その体感・経験を反省・分析することによって概念が形成される。これらは実存的な概念ではあるが、相対化・客観化も可能。

 ⑤線、円
 これらの幾何学的概念や観念に関しては、線的なるもの、円的なるものが知覚・経験されることがあっても、厳密な意味での線そのものや円そのものが経験されることはありえない。これらは概念や関係としてしか存在しない。

概念と定義 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:39 No.19353

 それと、先日来、「概念=定義」という定義は、私もどうもまずいんじゃないかとおもっていますが、その問題は別に検討してみたいとおもっています。
 どこがどうまずいかというと、私のぼんやりとした感じでは、定義の一般的なフォルムとしては、「AをBとする(呼ぶ)」というものがあるとおもうんですが、この場合、AとBの関係は「=」で結べるようなものではなく、恣意的なものではないかという気がするからですね。
 でもまあ、この疑問は、ある意味で形式的なものですから、あとでちょっと考えればいいかなともおもってるんですが…。

「覚えていなければ経験ではない」 如月 - 2009/11/22(Sun) 16:58 No.19392

 え~と、それから、「したことであっても覚えていなければ経験ではない」というくまげん7さんの言い方は、私にはとても興味深いです。ライプニッツが『新人間知性論』のなかでロック(フィラレート)にぶつけている大きな論点の一つはそれだとおもうのですね。上方のスレッドで引用している井上龍介さんの用語を利用させてもらえば、「サブリミナル」を認識論的にどうとらえるかということになるでしょうか。
 つまり、人間の知性形成における「経験」の重要性はライプニッツも充分承認しているのですが、サブリミナルというか無意識という概念を導入すると経験論は破綻するだろうというのがライプニッツの見通しですね。また、それと同時に「個」の実存もかなりあやうくなると私はおもいます。
 ライプニッツの認識論とは、そういうギリギリのところにたった認識論ではないでしょうか。

№16447の投稿より抜粋し再掲 佐々木 寛 - 2009/11/23(Mon) 09:48 No.19498

 「たとえば、睡眠中にもわれわれは周囲の音を聞いており、大きな音がすると目を覚ますのはそうした睡眠中の知覚(表象)だとライプニッツは言います。いずれにしても、ライプニッツは、日常、膨大な表象のほんの一部だけが「意識的表象」としてわれわれに現前しているとするわけですね。エルヴェシウスには、ここまで精緻な無意識論はありませんが、無意識についての基本的な考え方は同じであると考えられます。」(如月さん投稿より)

 ですから、「たとえば、睡眠中にもわれわれは周囲の音を聞いており、大きな音がすると目を覚ますのはそうした睡眠中の知覚(表象)だとライプニッツは言います。」というのは、要するに、睡眠中でも(無意識に)知覚が働いていることを、大きな音がすると目を覚ますという、“経験”から、その存在(無意識)が考えられたということなのです。ちなみに、バートランド・ラッセル流に言えば、大きな音は、センス・データ(sense-data:感覚与件)として、得られるものですね。(私の投稿より)

 上記は、№16447の投稿より抜粋し再掲したものです。広義の意識に含まれる無意識と、いわゆる狭義の意識とは、全く無関係に存在しているものではないことは、「睡眠中でも(無意識に)知覚が働いていることを、大きな音がすると目を覚ますという、“経験”から、その存在(無意識)が考えられたということ」からも、明白でしょう。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/11/28(Sat) 16:12 No.19989

 如月さん。

 道具も山も川も概念です。ですから、この概念(社会的恣意性)がなければ、山も川も存在しません。

 わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです。

 いや、わたしが死んでも、わたしが見ているあの山は存在するはずだ。これまでと同じように…。と考えるのは実はある手続き上の間違いをしています。

 「わたしが見ているあの山」はわたしの経験です。
 これまでと同じようにという歴史性は、誰の経験でしょう? …これは社会(ことば=言説)の経験です。
 実は外部世界=宇宙の普遍を語ろうとして、ことばの普遍をこの文章は語っているだけなのです。

 経験とは社会的なものなのです。それに対して体験とは、個人と世界が別れるあいまいな領域に属するものです。

 何も考えなくても車を運転して目的地に着くことがありますね。これは行為の自動化(刺激と反応が適切に結びつき思考を意識せずに行われる状態)のためです。ここでは、私は運転と合一しているし、車の外の情報とも合一しています。むしろ、私なんてことも考えていません。

 夢はそれとは別にわれわれが象徴系の混乱を常に抑圧していることを実感できます。母が恋人だったり、牛だったりするのは「意味」があります。それを外からの刺激に単純に結びつけることはできません。刺激が何に結びつくかは規定できないのです。

expression 如月 - 2009/11/28(Sat) 22:20 No.20008

 くまげん7さん、こんにちは。
 とりあえずライプニッツについての現在の私の読解とからめながらお返事させて頂きます。

 まず、「何も考えなくても車を運転して目的地に着く」という比喩は、ライプニッツもとても喜びそうですね。
 ただ、「概念(社会的恣意性)がなければ、山も川も存在しません。わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです」というところは、もう少し言葉を補って説明して頂けるとありがたいです。
 というのは、少なくともライプニッツの認識論・存在論は、それとは少し異なるタイプのもののような気がするのですね。
 ライプニッツ的に考えれば、「山や川、また道具的存在物が存在するかどうかというのは、認識上の問題というより、それらの事物が「充足理由律」を満たしているかどうかの問題で、それが満たされていれば、われわれの認識にかかわりなく事物は「(外界に)存在する」ということになるでしょうし、同時にそれらはモナド内に観念として存在し、その内界と外界が「予定調和」しているのだということになるとおもいます。
 また、もう少し厳密にいうと、「(外界に)存在する」という風に一般的にいわれる現象は、モナド内部の観念の表出(expression)だということになるのですね。
 で、これを要約すると、くまげん7さんの命題「概念がなければ、山も川も存在しません。わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです」となりそうで、どうもやはり少し違う気がするのです。
 これは、ライプニッツの場合、モナドが複数であり、かつ共通の概念を共有しているからかなともおもいます。こう考えると、ライプニッツの哲学は一見モナド中 心の独我論のようでありながら、モナドの複数性というところで、社会性という視覚をもちうるようにもおもうんですね。その概念や観念の社会性を保証しているのがコトバということになるのでしょうか…。

 それと、「経験」と「体験」という概念をくまげん7さんのように明確に二分してしまうことには、私はあまり賛成ではありません。
 このスレッドのなかで、「経験」という言葉があまりにも曖昧で恣意的に使われているように感じたので、上方の書き込みのなかで「体験」という言葉を使ってみたのですが、少なくともフランス語と英語ではどちらも「experience」ですから、これをあまり厳密に考えると、それはそれで不都合が生じるようにもおもいます。

 いずれにしても、「経験知」という概念は、ライプニッツの認識論のなかでは極めて居心地がわるいのです。

経験と計算能力 如月 - 2009/11/28(Sat) 22:33 No.20009

 佐々木さんの書き込みは難しくて、私にはどうおこたえしたらいいかよくわからないのですが、少なくとも直前の書き込みに関して言えば、「“経験”から、無意識なりあることの存在を知る」ということを私は否定しませんし、おそらくライプニッツも否定しないとおもいます。
 ただ、われわれの「知」というのは、そうした経験から得られるものがすべてではないと私はおもうのですね。
 たとえば計算能力を考えると、「1+1=2」とか「10+15=25」のようなものであれば、指を折ったり、モノで代用するなりして数えた実体験からそうした実感や解答を導きだすことができるかもしれませんが、たとえば「258,568+609,359」のような計算は、直接的な経験知や体験ではなく、経験知の応用によって解答を導き出すのではないでしょうか。それと、この「258,568」なり「609,359」といった数の概念(私はそれを適当に書いただけですが)も、われわれがこれらの数を経験したことがあるからその概念を把握しているとは言えないのではないでしょうか。
 私が考えているのは、その程度の単純な疑問です。

顕微鏡とexperience 如月 - 2009/11/28(Sat) 23:49 No.20011

 くまげん7さん、佐々木さん。
 それとライプニッツの知識論にとって見逃せないのは、彼はスワンメルダムやレーウェンフックらの生物学者と直接・間接の交流があるということです。ライプニッツの時代は、顕微鏡の精度があがって、細胞や精虫などの新しい発見が次々に行われていますが、顕微鏡による視覚の問題は、直接的には微小知覚の問題、つまりある事物を拡大したらどのように見えるのか、そこで展開している現象はわれわれの通常の視覚下の現象とはまったく様相を異にしているのではないか、とすると現象の本質とはどこにあるのか、どのようにしたらそれを確定できるのか(もし顕微鏡の精度がさらにあがれば、事物はさらに別様に見えるのではないか)という論点につながっていきます。ですから、ライプニッツの場合、顕微鏡による知覚は、彼の知識論・認識論形成に大きな影響を及ぼしているのです。
 また同時に、この顕微鏡による視覚の問題は、より広く、われわれのexperienceとは何なのかという論点を引き起こすとも言えるでしょう。つまり、顕微鏡という「道具」を用いて事物を観るというexperienceは、明らかに、直接的なexperience physique(身体的経験、体験)ではないが、これもまたexperienceであることは否定できないという論点ですね。
 私は、この問題意識は、ライプニッツとエルヴェシウスなどの18世紀の唯物論者に共通する意識だと考えていますし、おそらくコンディヤックもこうした問題意識を共有していたのではないでしょうか。

必然的真理の潜在的認識が生得的 如月 - 2009/11/30(Mon) 22:52 No.20166

 ご参考までに、ライプニッツ『人間知性新論』のなかの生得概念に関する議論の一部を以下に引用しておきます。

     *     *     *

 テオフィル「自然の光と呼ばれるものは、判明な認識を前提としており、事物の本性の考察はたいてい、私たちの精神の本性の認識と、外部に探す必要のないあの 生得観念の認識にほかなりません。かくして私は、検証するにはそういう考察しか必要としない真理を、生得的と呼んでいます。生得的概念が精神のなかに暗に含まれていると言われるとき、そのことは精神がそれらの概念を認識する能力をもつことだけを意味すべきだ、とする反論には、私はすでに答えました。そうした生得的概念を自己の内に見出す能力と、それらについて然るべく思考するときはそれらを認める態勢を精神はもっていることを、指摘しておいたのですから。」
 フィラレート「そうすると、それら一般的準則を初めて提示された人々はまったく新しいことは何ひとつ学ばない、とあなたは主張しているようです。でも彼らは最初に名を学び、次に、真理や、真理が依存している諸観念さえも学ぶことは明らかです。」
 テオフィル「ここでは名称が問題なのではありません。名称はある程度恣意的ですが、観念や真理は自然的です。しかし、これらの観念や真理に関してあなたは、私たちにきわめて縁遠い学説を私たちのものとみなしています。なぜかというと、生得的な観念や真理を、それらの源泉に注意を払うか、経験によってそれらを検証するかして学ぶということを、私は認めているからです。あなたの話題にするケースでは、まるで私たちは新しいものを何ひとつ学ばないかのようですが、以上のようなわけで、そう考えてはいません。また私は、人が学ぶすべてのものは生得的でないという命題も認めません。数についての真理は私たちの内にありますが、それでも人はそれらの真理をやはり学ぶのです。論証的理性によって学ぶときはそうした真理をそれらの源泉から引き出すことによって学び(これは数が生得的であることを示しています)、あるいは、通俗的算術家がするように、実例のなかで経験的に知ることによって学ぶのです。通俗的算術家は、理由を知らないために、真理の規則を単に伝統によって学ぶだけですし、せいぜい、それらの規則を数える前に、適切と判断する範囲の経験によってそうした規則の正しさを証明するにすぎません。(以下省略)」
 フィラレート「しかし、人々が使っている名辞や言葉のみならず、観念もまた外部から私たちにやってくることはありうるのではないでしょうか。」
 テオフィル「そうなると、私たち自身が私たちの外部にあるのでなければならなくなります。なぜなら、知的観念ないし反省的観念は、私たちの精神から引き出されるからです。もし私たち自身が存在者でなく、私たちの内に存在を見出すのでもないとしたら、私たちはいかにして存在の観念をもちうるのか、知りたいものです。」
 フィラレート「しかし、私の友人の一人が次のように言って挑戦したら、あなたは何と答えますか。『もし誰かが、それを構成する観念が生得的である命題を見つけて私に挙げてくれるなら、私にとってこれほど嬉しいことはないでしょう』、と。」
 テオフィル「私ならその彼に、算術的命題と幾何学的命題を挙げます。これらの命題はすべてそうした本性をもっています。必然的真理については、そうでない命題は見つかりますまい。」
 フィラレート「それは、多くの人々にとって奇妙に思えるでしょう。最も難解で深遠な知識が生得的だ、などと言えましょうか。」
 テオフィル「それらの知識の現実的認識が生得的なのではなくて、潜在的認識と呼べるものが生得的なのです。ちょうど、大理石の石理の描く形が、加工によって発見される前に、大理石のなかにあるようなものです。」
 フィラレート「しかし、外部からやって来る概念を受けとりそれに同意を与えているのに、子供たちは、生得的で自分たちの精神の一部をなしていると想定される概 念についてはいかなる認識ももたない、などということが可能でしょうか。そうした概念が消し難い文字で精神に刻まれていて、基礎として役立つと言われているのにです。もしそういうことが可能ならば、自然は無駄な骨折りをしたことになる。あるいは少なくとも、自然はそれらの文字を下手なやり方で刻み込んだことになる。他の事物はよく見える眼が、それらの文字を読み取れないわけですから。」
 テオフィル「私たちの内部にあるものの意識表象は、注意と秩序に依存します。ところで、注意は生活の必要によって導かれていますから、子供たちが感覚的概念により多くの注意を払うのは、可能であるばかりか適合したことでさえあるのです。それでも自然は私たちに生得的認識を刻むのに少しも無駄な骨折りをしたのではないことが、これから分かります。生得的認識なくしては、論証的諸学における必然的真理の現実的認識や事実の理由に達するためのいかなる手段もないし、私たちは動物に優るものを何ひとつもたないことになるからです。」(『人間知性新論』第一部第1章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、75-78頁)

生得的原理が即座に明証的とは限らない 如月 - 2009/12/01(Tue) 09:05 No.20198

 フィラレート「いかなる義務も法の観念を伴っているし、法を定めた立法者や賞罰なくしては、法が知られたり想定されたりすることはありえません。」
 テオフィル「立法者がいなくとも自然的な賞罰はあります。たとえば、不節制は病気によって罰せられる。けれども、不節制が即座にすべての人に害を及ぼすわけではない。だから、いかなる罪にも必ず罰を与え、いかなる善行にも必ず報奨を与える神がいないとしたら、ぜがひでも従わなければならぬ掟などないも同然であることは認めます。」
 フィラレート「すると、神の観念や来世の観念も生得的でなければなりません。」
 テオフィル「私が説明してきたような意味では、その通りです。」
 フィラレート「しかし、それらの観念はすべての人間の精神に自然的に刻み込まれているどころではなく、事物を多少なりとも厳密に検討することを生業としている多くの学識者たちの精神にさえ、さほど明晰判明には現れません。ましてや、いかなる人にも知られているなんて、とんでもないことです。」
 テオフィル「知られていないものは生得的でないとする想定を、私は幾度となく反駁してきましたが、またその同じ想定に逆戻りですね。生得的なものであるからといって、即座に明晰かつ判明に知られるわけではありません。生得的なものに気づくには、しばしば注意と秩序が大いに必要です。学識者がそれを常になし遂げているとはかぎらない。すべての人となればなおさらです。」
 フィラレート「しかし、もし人々が生得的なものを知らずにいたり疑ったりできるなら、生得的諸原理について私たちに語ってその必然性を分らせようとしても無駄です。それらの原理は、事物の真理と確実性を私たちに教えるのに役立ちうる、と主張されていますが、少しも役には立ちません。ですから私たちは、それらの原理があっても、私たちの内にそれらがないのと同じく不確実な状態に留まるでしょう。」
 テオフィル「すべての生得的原理を疑いうるとはかぎりません。自同的なものや矛盾律については、あなたもそのことに同意し、疑いえない諸原理があることを認めました。その際あなたは、それらの原理が生得的だと認めてはいませんが。しかし、生得的であるもの、そしてそれら生得的原理と必然的に結びついているものがすべて同様に、疑う余地なく即座に明証的であることにはなりません。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作 集』第四巻、90-91頁)

 フィラレート「慣習や教育や私たちが交わる人々の一般的意見は、生得的と想定されるこれら道徳の諸原理を曖昧にしうると言われてきました。しかし、もしこの反論が正しいとすれば、普遍的同意に基づくとされている論拠は無に帰してしまいます。多くの人々の推論はこうなってしまいます。良識ある人々が認める諸原理は生得的である。私たちと私たちの仲間は良識ある者たちである。ゆえに、私たちの諸原理は生得的である。何と愉快な推論の仕方でしょうか。無謬性へのまさに近道です。」
 テオフィル「私はと言えば、普遍的同意を、主要な論拠としてではなく確認として使っています。なぜなら、理性の自然な光と考えられた生得的原理は、あなた自身が疑いえないものと認める直接的原理に含まれているので、幾何学と同様にその刻印をもっているからです。しかし、本能や他のいくつかの自然的習態を慣習と区別することの方がもっと難しいのは認めます。それでも、たいていは区別できると思います。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、93頁)

Re: また繰り返しになる部分も有りますが…。 佐々木 寛 - 2009/12/05(Sat) 21:15 No.20530

 「ただ、われわれの「知」というのは、そうした経験から得られるものがすべてではないと私はおもうのですね。たとえば計算能力を考えると、「1+1=2」とか「10+15=25」のようなものであれば、指を折ったり、モノで代用するなりして数えた実体験からそうした実感や解答を導きだすことができるかもしれませんが、たとえば「258,568+609,359」のような計算は、直接的な経験知や体験ではなく、経験知の応用によって解答を導き出すのではないでしょうか。それと、この「258,568」なり「609,359」といった数の概念(私はそれを適当に書いただけですが)も、われわれがこれらの数を経験したことがあるからその概念を把握しているとは言えないのではないでしょうか。」(如月さん投稿より)

 応用や類推などというのは、しばしば我々が、経験していることです。当然、経験知の応用というのは経験の範囲内でしょう。右手の指を一つ二つと曲げながら、1・2・3・4・5(ここで右手の指が全て曲げられる)・6(ここから曲げた指を伸ばして)・7・8・9と数えるのは、1ずつ加えて行くということでしょう。そして、9の次が、10で位(桁)が一つ上がり、そこで左手の指を一つだけ曲げる。それから、また右手で、11・12・13・14・15・16・17・18・19と数えられるならば、後は原理的に、この繰り返しで、100まで数えられますし、その後も、左手の指の代わりに別のものを位(桁)が一つ上がった目印(めじるし)として一つずつ用意すれば、原理的に無限に、この操作を繰り返すことが可能だと考えられます。
 それから、インド記数法を基にしたアラビア数字による数値、「258,568」と「609,359」の加算は、簡単な、一桁同士の足し算から二桁同士の足し算へと、我々が習い覚えたように、六桁同士の足し算も、算術の計算規約に基づいて可能でしょうし、数や算術自体、後天的に習得した経験を多くの人が持っているのではないでしょうか。少なくとも私は、数の数え方などを父親などから教わった経験を持っています。数や言葉を教わると、それに付随して暗黙の内に、論理の規約である同一律や矛盾律も教わることになります。
 子供の頃には、簡単に教えて貰ったり自分でも考えると思いますが、「山」や「犬」という言葉を教わり、その意味内容として、概念があります。たとえば、山とは、平らな平野などから高くなっている部分であり、犬とは、四本足の生き物でワンワンと鳴くものであるなどが、その言葉の意味内容であり、その簡単な概念ですね(ちなみに、犬という言葉と、その概念〔=意味内容〕を教えられた後で、実物の犬を見たり触れたりする経験をしたということもあるでしょうが、この場合、限定的ですが、犬の実際経験以前に犬の概念があることになります。ただし、厳密に言えば、その概念は言語経験により、得られたものに他なりません)。さらに進むと、何度か述べたように、「線」という〔言葉〕は、「幅の無い長さ」という意味〔線の概念〕であるなどになります。
 また、ある具体的な数を経験したことが無いから、数の概念を把握しているとは言えないというのは、たとえば、アフリカなどに存在するバオバブという樹木を実際に見た経験が無いから、樹木の概念は把握できないし、経験から樹木の知識を得ることはできないと言っているのに近いように思えます。常識的に言って、バオバブ以外の身近にある松や杉などの樹木を観察する経験は持てますので、樹木に関する相応の知識や概念は持てるでしょうし、新種が確認されたら、既知の樹木の種類に加えるか、分類上、新たな種類を付け加えれば良いだけの事だと考えます(ほとんど問題ないでしょう)。

 「テオフィル「それらの知識の現実的認識が生得的なのではなくて、潜在的認識と呼べるものが生得的なのです。ちょうど、大理石の石理の描く形が、加工によって発見される前に、大理石のなかにあるようなものです。」(如月さんの引用より)

 …と、ライプニッツは述べていますが、知的能力が潜在的かつ生得的だと考えた方が適切だと思っています。私が、父親からも誰からも数え方を教わらなければ、そもそも数えること自体できないでしょうから、幼い頃に知的な潜在能力を適切な学習経験により、引き出すことは重要でしょう。そうでなければ、大理石の塊は、何の像も描かれず仕舞いになるでしょう。実際、不幸な野生児の例もありますから…。
 それから、顕微鏡の問題ですが、これも、それほど大した問題でもないでしょう。そもそも我々は、ラッセル流に言えば、センスデータ(感覚与件)として、あらゆる対象と関わる訳ですから、肉眼だろうと光学顕微鏡だろうと電子顕微鏡だろうと、それが対象として、本質的に、センスデータ(感覚与件)であることには、何の変わりも有りません。ちなみに、二千数百年前に、釈迦牟尼が、そのことを明確にしています(正直に言って、桁違いの頭脳だと思うし、人格も桁違いに思えます)。そして、感覚与件(経験事実)外に実在を仮定しても、それは、検証できない仮定でしかなく、その意味で唯物論は、観念的と言わざるを得ません(たしか、ショーペンハウアーも、同様のことを指摘していたように思います)。
 最後に、「生得的原理が即座に明証的とは限らない」(如月さん要約)というのは、ライプニッツが自説の説得力の無さの言い訳で述べているようにしか聞こえないところも有ります…。

 追記:「(たしか、ショーペンハウアーも、同様のことを指摘していたように思います)」というのは、表象(意識)の方が前提であり、物は従属的であるということを、ショーペンハウアーは述べていたはずです。

Re: 一皮(ひとかわ)剥(む)けたような、くまげん7くん…。 佐々木 寛 - 2009/12/05(Sat) 21:29 No.20531

 「これは、ライプニッツの場合、モナドが複数であり、かつ共通の概念を共有しているからかなともおもいます。こう考えると、ライプニッツの哲学は一見モナド中心の独我論のようでありながら、モナドの複数性というところで、社会性という視覚をもちうるようにもおもうんですね。その概念や観念の社会性を保証しているのがコトバということになるのでしょうか…。」(如月さん投稿、№20008より)

 「いや、わたしが死んでも、わたしが見ているあの山は存在するはずだ。これまでと同じように…。と考えるのは実はある手続き上の間違いをしています。「わたしが見ているあの山」はわたしの経験です。これまでと同じようにという歴史性は、誰の経験でしょう?…これは社会(ことば=言説)の経験です。実は外部世界=宇宙の普遍を語ろうとして、ことばの普遍をこの文章は語っているだけなのです。」(くまげん7くん投稿、 №19989より)

 くまげん7くんの述べた、この部分は、結構、重要なことだと思いますね(何か一皮剥けたように思える)。私の場合、普遍は、言葉あるいは論理の規約である、同一律および矛盾律が保証するものだと考えています。そして、それは規約ですから、当然、社会性も備えています。また、同一律や矛盾律というのは、共有概念あるいは共通概念だとも言えると思います。
 
 追記:知らない間に、ここで議論が続いていたんですね。見逃していました。

Re: 道徳について…(一つ、忘れていましたね)。 佐々木 寛 - 2009/12/06(Sun) 11:19 No.20571

 道徳が、生得的か、後天的かという問題ですが、これは、後天的でしょう。子供の頃に、両親などから、嘘を付くな、人のものを盗むな、人を傷つけるな、などと躾られて、その後、自律的に自身の行動を律するようになる場合が多いのではないでしょうか。幾度も例に出しましたが、たとえば野生児に、人間的な道徳意識が有れば、生得的だと言えますが、そうではないでしょう。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/12/06(Sun) 18:30 No.20590

 モナド(単子)というものが一つの精神であること、精神作用の根源として見出されるものとして規定したこと。

 これにつきるのだと思います。

 ただ、これはキリスト教的一神論を前提としているために予定調和(均衡ではない。)という世界概念に直結しました。

 生得概念というアイデアは実は人間は神の育てた智慧の実を食べたものということが前提で言っているのです。だから、一人一人の内に神の智慧がある。ということです。

 カントのアプリオリとは違います。カントは人間という存在が限界づけられたものであるという神を必要としないアイデアから出発しています。(それでも、カント自身は神を持ち出して存在証明してますが、結論はいてもいなくても人間にそれを知ることはできない。です。そして、神とは論理上の必要からその存在が 証明されるものという話にすりかえてしまいます。要請論。)

 ライプニッツが注意深く、真理=原理としているのは科学的精神である現象は法則の現れという世界観の萌芽です。実体は見ることのできない法則の方であり、現象はその現れだ。というのは<説明の方法>の一大革命でした。

 なぜなら、今まで神の計画や神の意志、神の王国を作る過程として世の中というもの、世界というものの動きがあると考えていたのです。それが、神とは無関係に、元々、決まりがあって、その通りに動いているだけだ。(物理学的決定論)は神の計画があったとしても、それが失敗なら、もうすでに失敗していて、何をしても失敗するのだし、成功しているなら、何もしなくても成功するということになるからです。(話が横道ですみません)

『人格知識論の生成』 如月 - 2009/12/08(Tue) 00:06 No.20646

 上方のスレッドの○○さんの投稿におこたえしようとおもって小サイト内のページをあちこち開いているうちに、一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成――ジョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会、1997年)を要約紹介したページにいきついて、久しぶりに読み返してみたらけっこうおもしろかったです↓。

http://www.furugosho.com/nomadologie/ichinose1.htm
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