エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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ヘーゲルについて(転載)

佐々木 寛  題名:はじめまして
投稿日 : 2005年12月23日<金>16時52分

佐々木と、云います。どうぞ、よろしく、お願いします。実は、最近、ヘーゲル=著、『精神現象学』、長谷川宏=訳、を購入しました。まだ、全部を読んでいません。

飛ばし読みをしているのですが、絶対的なるものとしての共同体、絶対知、絶対精神、…などと、ヘーゲルは述べていますが、彼が言う「絶対」とは、どういう意味なのでしょうか?

たとえば、共同体国家を絶対的だと言っても、旧ソ連のように現に亡んだ国家もあります。
 
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:takin  題名:ヘーゲルの「絶対」について
投稿日 : 2005年12月24日<土>02時04分

こんばんは、佐々木さん。takinです。

これは難しい質問ですね。私自身、まだ不勉強でして、やはり個々の文脈に即してでないと、答えられないといいますか・・

ただヘーゲルの使う概念を、直接に現実の事物(たとえば、旧ソ連)などと比べるのは、無理筋のようです。

拙ページで http://taki.cool.ne.jp/di/Te/index.htm#absolut 
ぼんやりとした説明はしているのですが、お役に立つかどうか・・

http://taki.cool.ne.jp/

Res:佐々木 寛  題名:○○さん takinさん 返信ありがとうございます
投稿日 : 2005年12月24日<土>10時40分

私にとって、主体が実体だというのは、なかなか理解しがたいことです。

それから、「ただヘーゲルの使う概念を、直接に現実の事物(たとえば、旧ソ連)などと比べるのは、無理筋のようです。」(takinさん)

とのことですが、そうすると、少し言い方を換えますと、ヘーゲルの概念は、現実の事物とは遊離したものと、言えなくもないことになります。

たとえば、「絶対知に至る」などと言った場合、普通それは、至り得る物事だと解釈できます。そうしますと、それは、相対的な関係の上に成り立つものだと考えられます。

そこで、相対的な関係の上に成り立つ「絶対知」を絶対と言うことは、私には妥当性があるように思えなくなるのです。

そして、共同体(あるいは共同体国家)に価値を置くことを否定しませんが、共同体が絶対のものではないから、不断の努力が必要になるのだとも考えます。

takinさんに紹介して頂いたページ、時間を見て拝見したいと思います。ありがとうございます。
 
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:佐々木 寛  題名:中観というより仏教の唯識的
投稿日 : 2005年12月24日<土>23時40分

「主体・主観性Subjektivitaetと云ふのは自己意識のことで、それは既に(自己と云ふ)対象との関係であり対象も含む全体のことです。(ですよね?)」(○○さん)

中観というより仏教の唯識的ですね。ただし「対象との関係であり対象も含む全体のこと」を仏教の唯識では、絶対なるものだとは言ってはいないと思います。基本的に仏教は、絶対的なものや実体的なものを否定的に捉えますから。

それでも、部分的にヘーゲルには、唯識に近いところもあると思えなくもないですね。その辺は、面白いと感じています。ヘーゲル自身、仏教の存在を知っています。たしか、『歴史哲学講義』の中に、仏教についてと題してヘーゲル自身が、ちょっとした文章を書いていますから。ある程度、仏教からの影響を感じますね。
 
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:takin  題名:分かる範囲で、お話をしますと・・
投稿日 : 2005年12月25日<日>00時36分

佐々木さん、○○さん、多くのコメントありがとうございます。

いろいろ多くの問題が出てきていますが、私自身よく分からないところばかりで、抽象的・一般的問題に対して、答えを組み上げるところまでいってません。

ただ、一般論として私が言えるのは:
1) 佐々木さんのおっしゃる
>ヘーゲルの概念は、現実の事物とは遊離したものと、言えなくもない
ということは、そのとおりだと思います。
それでは、彼の述べたことは空中楼閣となってダメだと言われそうですが、
そこは割り切ったうえで、ヘーゲルのお手並みを拝見しましょう――
というのが、私のスタンスです。

例えば、住宅会社がよくモデルルームを展示しています。いかにも快適そうですが、しかし、ピカピカに整理された家には、実際に住むことは無理です。息が詰まるし、生活のダサい場面で、いろいろ不便なことが多いと思います。しかし、モデルルームを見れば、刺激を受けるし、参考になることも事実です。

また、詰将棋は高度になって芸術的になるほど、実戦の棋譜からは離れてゆきます。では詰将棋と実戦とは何の関係もないかといえば、そうとも言えない・・

というわけで無責任なようですが、ヘーゲルの諸概念も、まずはモデルルームや詰将棋的に接してみようと、私などは考えています。

2) >主体が実体だというのは、なかなか理解しがたいことです。
『精神現象学』の「序文」で表明されている「実体は主体である」を、
念頭に置かれてのことだと思いますが、そのようにお感じになるのは、
もっともだと思います。
(正確な引用としては、「私の考えでは、すべては次のことにかかっている:
真なるものをたんに実体としてではなく、主体としても把握すること。」)

しかし私見では、専門家も含めて世間の人たちは、この有名な「実体=主体」テーゼを、ふつう誤解しています。つまり、ここでの「主体」は、近代的な個人の意識のありようを意味しているのではなく、「主体的運動(活動)」を意味しているのです。したがってヘーゲルは、「実体は、自立的な運動(活動)体である」と言っているわけです。このことは、「序文」での前記引用個所のすぐ後の段落の冒頭で、「活動的な [活ける] 実体は、実際のところ主体であるような存在である、あるいは同じことであるが、自己措定をする運動・・・という点において、現実的であるような存在である。」と述べられていることから、分かります。

そこで、「実体=主体」というテーゼそのものは、フィヒテの「自我の自己措定」、やシェリングの「絶対者とは、自己の外へ出て行くという、永遠の行為」という、論点を継承していくことを、述べたものにすぎないわけです。(この拙「実体=主体」理解は、やがて拙HPで詳説しようと思っています)。

http://taki.cool.ne.jp/  

Res:佐々木 寛  題名:転載について
投稿日 : 2005年12月27日<火>22時03分

takinさん ○○さんへ

興味深い話題ですので、この遣り取りを、転載して構わないでしょうか?

http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/  

Res:takin  題名:転載OKです
投稿日 : 2005年12月27日<火>23時55分

私については、一向にかまいません。

何かのご参考にしていただければ、しあわせです。

http://taki.cool.ne.jp/  

Res:佐々木 寛  題名:転載の件
投稿日 : 2005年12月28日<水>09時08分

takinさん ○○さん

転載の件、了解して頂き、ありがとうございます。

http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/
 

〔注〕 上記は、下記のBBSでの議論を、転載したものです(なお、読みやすいように投稿の順番を入れ替えています。それから、後日、○○さんの投稿は転載しないで欲しいとの事で、削除しました。ただし、引用部分まで削除すると何を言っているのか分からなくなるので、○○さんとしました。ですから読みづらいかも知れません)。
「ドイツ観念論のページ」・「哲学と批評」のBBS
http://www.world2.to/wboard/a_3/wboard.cgi/takin/
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