エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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格差(一般)が悪であり、格差を無くせという、主張

最近、ピケティに関する論争と共に、格差(一般)は悪であり、格差を無くせという主張がある。不正な行為により富を得るのは、もちろん違法だが、努力しリスクを負った人が富を得ても、それによる格差も含めて、悪いことのように主張する輩が多い。また、政治家やマスコミの論調も含め、そのような主張が持てはやされている。

そして、格差は悪いことだから、強度の累進課税にするべきだという主張も為されている。しかし、基本的に、格差一般が、悪ということはない。資産家のポール・マッカートニーが、悪いことをして資産家になったのではないことを、世界中の人々が知っている。

格差一般を悪とし強度の累進課税などにより、格差をなくすことは、基本的に、結果平等の、悪平等思想でしかない。強度の累進課税は、マルクスが、共産党宣言で主張していることであり、私有財産の否定、財産権の侵害にあたる(フランスでは最近、強度の累進課税に対し、憲法違反の判決が出ている)。

実は、格差一般を否定する結果平等こそが、悪平等思想であることを知らなければならない。例えば、努力をしない、勉強もしない、怠ける、暇があれば、パチンコで遊ぶだけの人と、リスクを取り自らの才覚と努力により結果として成功したポール・マッカートニーの資産に重税を掛け、足して割ったとしよう(結果平等)、名目は、生活保護費として遊んだ人に渡すわけだが、この場合、格差をなくし、結果が平等なら、努力もせず、勉強もせず、怠けて、遊び呆ける人が、もっとも得をすることになるのは、理解できるはずである。

そうすると、誰もが、怠け放題、怠けることになる。それは、かつての、社会主義や共産主義の国で、実際に起こったことであり、大半の人間が怠け合いに終始し、無駄や非効率の増大により、社会全体を衰退させるだけの誤りであることが、もはや実証されたことだと言って良い。

<<追記>>

格差一般が悪であり、持てる者から徴収し、格差を強制的に無くすべきだという主張は、建設的ではないし、間違いだと考えている(強度の累進課税は財産権の侵害にもなる)。

たとえば、豊かな国の資産の大半を強制的に、貧しい国に配分して、世界の資産格差を無くすことに対して、豊かな国の人々は、大半が反対するだろう。ただし、貧しい国が豊かになるような支援は、豊かな国の人々も多くは賛成するであろう。

同じように、豊かな国の中でも、豊かな人から強制的に、その資産の大半を徴収し、貧しい人に配分して格差を無くすべきだという主張は、建設的でもなく健全でもない。この場合、重要なのは、貧しい人が自らの才覚と努力により豊かになることを、支援することなのである。

現在時点において、一般的な社会人一年生は、いつでも、どこの国でも、ほぼ資産ゼロからスタートするものである。たとえば、イギリスの資産ゼロの社会人一年生と、この現在時点における、資産家ポール・マッカートニーの資産格差は、日本円で数百億円の差になると思われるが、これを短絡的に悪だと言う主張は、間違いである。この経済的格差は、許容されなければならない。

そもそも、ポール・マッカートニー自身、現在時点に至るまでには、彼自身が、ほぼ資産ゼロからスタートし、数十年に及ぶ創作活動の結果として、資産家になったのだから、なぜ、その数十年に及ぶ創作活動の結果の資産を、邪悪視し、スタートしたばかりの人との結果平等を唱えるのか(たとえば強制的に資産分配し格差を無くせ)、これほどの悪平等も無いだろうと考える。その上、何年にも亘り、遊び呆けていた人と、努力した人との結果を平等にしたら、それこそデタラメな社会に成ってしまうのは必然である(かつての社会主義国や共産主義国そのもの)。

悪い格差と言えるのは、社会主義国・北朝鮮のような強権政治により作り出された政治的格差である。ちなみに北朝鮮では、出身階級により、厳格に身分格差が固定化されていると言われている。分かりやすく言えば、ポール・マッカートニーのような存在を否定し、認めない社会である(北朝鮮では実際に、殺された才能ある人間も少なくはないと考える)。

先にも述べたが、重要なのは、資産ゼロの人が、自らの才覚と努力により、健全かつ合法的に、資産を増やし経済的に豊かになることの、支援である。

たとえば、失業保険と生活保護の間に、生活再建のための職業教育をプラスしたような支援制度(いま現在もあるにはあるが、その制度の充実)。また公費を使って、すべての職業教育の要望に応えるとなれば莫大な財政負担になると考えられるので、技術革新が日進月歩の現代社会において、必要と考えられる主要なものを幾つか選択した上での、その教育。

基本的に、結果の平等ではなく、機会の平等で重要なのは、努力し学び続ける時間と、その間の生活費だと考える。自主的に学べる人にとっては、比較的自由な時間と多少の生活費があれば、努力し学び続けられる。たとえば、ハリー・ポッターの作者が生活保護を受けながら、執筆活動を続けたのは、有名な話である(問題は、端から遊び呆けようとする輩だが、それには何らかの対策が必要)。

実のところ、ハリー・ポッターの作者のように、生活保護から、逆に、高額納税者になるというのは、生活保護など支援制度の成功例であろう。これは機会の平等の成果と言って良いと考える。
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政治・経済 | トラックバック:0 |

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