エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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日本の個人主義の起源(加筆あり)

 日本の個人主義の起源を考える時、よく明治以降、西洋からの影響と考えられがちであるが、そうではなく、仏教からの影響の方が、はるかに強いのではないかと考えている。

 たとえば、釈尊自身の言説や行動を古い仏典で読むと、それは、まさに個人主義者のものとしか考えられない。阿含経典など、個人の自由な意志が、可能な限り尊重されているのは、一読すれば分かることである。そして日本においては、鎌倉時代の、道元や、日蓮、そして法然などの僧侶は、個人主義の権化のようにも思える。

 近代における、個人の自由を過度に抑圧する集団主義(あるいは全体主義)こそ、西洋で生まれたものであろう。たとえば、キリスト教の異端審問や、魔女狩り魔女裁判。また、異端者や異分子への苛酷な仕打ちは、共産主義や国家社会主義ほど、顕著なのは明らかである。

 日本の場合、江戸時代においても、良寛などは、個人主義者で、自由人に思える。ちなみに、江戸時代の和算家(数学者)の関孝和は、自ら、自由亭と号したそうである。また、芭蕉にしても、北斎、広重にしても、まさに個人主義者で、かつ自由人であったろう。その他に、若冲、梅園、仁斎などなど…。これらの人々が、集団主義者だったとは、到底、言えまい。

 さらに、江戸時代を通して見た場合の武士個人にしても、不正を働くような、不名誉なことで名を汚すのは、恥以外の何ものでもなかったと考える。日本は、恥の文化だとも言われるが、恥というのは、個人の感情に基づくものであろう。

 そして、脱藩までしている、高杉晋作や、坂本龍馬などは、共に、既存の組織に囚(とら)われない、まさに個人主義者であり、かつ自由人である。このような、個人主義的な自由人が、祖国の為に尽力したことは、日本の精神文化の深みを感じさせる。

  おもしろきこともなき世をおもしろく (晋作) すみなすものは心なりけり (望東尼)

  いま一度、日本を洗濯致し候事、神願にて候 (龍馬)

 おわりに、有名な、都々逸(どどいつ)を、ひとつ。ここに、濃厚な自由の香りと、強烈な個人主義を、誰しもが、感じるのではないだろうか。しかも、時は、江戸時代末期である。

  三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい (高杉晋作)
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