エッセー哲学的 / 佐々木 寛


哲学に関わる、試論および小論、さらには、色々な時事問題や、身近な問題などについても、自由に書いてみたいと思っています。なお、コメントは、リンクにある掲示板へ、どうぞ。ただし、悪戯と思えるコメントは、削除します。

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劉暁波氏不在のまま、ノーベル賞授賞式

時々、首を傾げなければならないような受賞者がでるノーベル賞だが、今年のノーベル平和賞は、まったく妥当だと思っている。それにしても、中国共産党の遣り口は、邪で汚い。夫人や親族の代理出席まで妨害するとは、許し難い行為だと思う。

聞くところによると、同様の例は、ナチス支配下のドイツのジャーナリスト以来だとのこと。今の中国は、ナチス以上の人権侵害国家であり、市民の自由を抑圧し、中国共産党の特権階級(ノメンクラトゥーラ)が搾取している体制だから、彼らにとって不都合なことは、どんなことでも、妨害したくなるのだろう。

劉氏不在で平和賞授賞式 74年ぶり、代理もなし
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010121001000796.html

【ノーベル賞授賞式】平和賞、香港でも祝福 市民ら劉氏釈放求める
http://sankei.jp.msn.com/world/china/101210/chn1012102343009-n1.htm

ちなみに中国には、「労改」という強制労働収容所が、存在すると言われている。参考までに、ハリー・ウー&ジョージ・ベクシー=著、『労改』、山田耕介=訳、TBSブリタニカ、1996年の24頁から、引用。

「中国政府は一九四九年の政権奪取以来、一千万人を労改に送り込んだことを認めている。一九九五年には、六百八十六カ所の労改に百二十八万人の労働者がいると明らかにした。この数字はばかげたほど低い。私の推計では、四九年以来、労改に送られた者は五千万人を超える。手元の資料では、現在、収容所数は千百五十五カ所、収容人員は六百万から八百万人の間である。そのうちの一〇%は政治犯、つまり、悪いときに発言を誤った人々である。(中略) 労改で命を落とした人は数百万人に達する。」

上記引用の、「発言を誤った人々」の中に、劉暁波氏も含まれると考えてよいと思う。中国とは、言論の自由が、抑圧される国なのだ。
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一流の文学作品、傑作について

私の趣味で、私が一流だと考える、文学作品の傑作について、少しく、述べたいと思います。

まず、何を以って、一流だと考えるかについてですが、それは、その作品に、心を打つ、圧倒的なものが、有るか、無いか、それに尽きます。読んでみて、圧倒的なものが、有れば、傑作ですし、無ければ、凡作ないし、駄作の類(たぐい)に為ります。

たとえば、傑作と言えるものを上げると、宮沢賢治の作品群、ゲーテの『ファウスト』、ドストエフスキーの『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』、紫式部の『源氏物語』などなど…。

それから、文学作品とは呼べないかもしれませんが、新渡戸稲造の『武士道』や『ゴッホの手紙』など、これらも、世界的に見て、その、文学的内容において、まさしく、一流だと考えています。

また、人それぞれ、好みは異なりますが、私の場合、思わせ振りな、終わり方の作品は、あまり、好きに為れません。それは結局、その作品で作家が、何ごとかを、言い切れないために、思わせ振りな、技巧・テクニックに走っているように、受け取れるからです。

要するに、中身の無い作品でも、中身が有るかのように思わせたい場合などに、思わせ振りな、技巧・テクニックが、使われる場合も有るのです。

そして作家は、作品、創作時点において、自らの全てを、その作品に込めるべきだとも、考えています。

未完である、『カラマーゾフの兄弟』のように、結論が出ていなくとも、その時点における作家の全てが込められているならば、作家が、作中人物に言い切らせた、真摯な問い、そのものに、心を打たれることも有るのです。

おわりに、作家の全てが込められ、言い切った好例として、ゲーテの『ファウスト』の一節を、引用したいと思います(ゲーテ、『ファウスト』、高橋義孝=訳、新潮文庫より)。

  そうだ、己(おれ)は、こういう精神に、この身を捧げているのだ。
  それは、叡智(えいち)の、最高の結論だが、
  「日々に、自由と生活とを、闘(たたか)い取らねばならぬ者こそ、
  自由と生活とを、享(う)くるに値する」。
  そして、この土地では、そんな風に、危険に取り囲まれて、
  子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。
  己(おれ)は、そういう人の群れを見たい。
  己(おれ)は、自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
  そういう瞬間に向って、己(おれ)は、呼びかけたい。
  「とまれ、お前は、いかにも美しい」と。
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テレビのニュースで全く報道されない。

「枝野氏が革マル幹部と覚書」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100717/plc1007171052008-n1.htm

 異常なほどの報道統制だと思う。革マル派と中核派の互いのテロルでは何人もの死者が出ており、また、巻き添えにより一般市民にも犠牲者が何人も出ている。そのような極左テロリストの集団と、公党(しかも政権与党)の幹事長が覚書を交わすなど大問題だが、信じられないほど、テレビその他でも報道されない(日本には、旧ソ連に有ったような、鉄のカーテンが存在するのか…)。

参考:『中核VS革マル(上・下)』、立花隆=著、講談社文庫。
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ハーバード白熱教室

ハーバード白熱教室
http://www.nhk.or.jp/harvard/lecture/100523.html

 「ジョン・ロールズは、努力に報いる分配システムである能力主義は、不公平であると主張する。なぜなら、生まれながらに才能があっても、努力の成果として才能を獲得したわけではないからだ。それは生まれてきた順番のような恣意的な要素によるところが大きいため、自分の功績だと主張できないと言うのだ。」(上記サイトより引用)

 ほんとうに、そうであろうか?

 「なぜなら、生まれながらに才能があっても、努力の成果として才能を獲得したわけではないからだ。それは生まれてきた順番のような恣意的な要素によるところが大きいため、自分の功績だと主張できないと言うのだ。」、生まれつき、偶然、具わった才能は、努力の結果として得られたものではないから、その人のものではない。要するに、偶然の所有物は、その人のものではないという意味合いになるわけだが、ほんとうに、そうであろうか。

 たとえば、当たるか、どうか分からない、宝くじを給料の一部で、購入し、偶然、一等の三億円が当たったとしよう、この場合、その一等の当たりくじが偶然の所有物だからと言って、その人のものではないというのは、詭弁以外の何ものでもないのは明白であろう。さらに言えば、生まれつきのものが、その人のものでなければ、一体、誰のものなのか。ジョン・ロールズに生まれつき具わったジョン・ロールズの脳味噌は、ジョン・ロールズのものではないのか?

 また、生まれつき才能があっても、努力をしない人もいる。その場合、才能はあるが、努力を怠ったため、何の業績もないということも、ありうる。この場合、何の業績もないというのは、人類・社会に対する貢献度、及び、公共・共同体に対する貢献度が、著(いちじる)しく低いか、または、何も、貢献していないことを意味する。

 それから、遺伝的影響も或る程度ある才能という意味において、たとえば知能指数が、人並み以上の130以上あるのだが、努力を怠り遊び呆けたため、何の業績もないどころか、遊ぶ金欲しさに犯罪に手を染めてしまう輩(やから)も中には存在する。

 基本的に、人の善し悪しを判断する材料は、悪事を行っていないか、どうかであり、次に、業績があるか、ないかである。そして業績が、ある場合は、どの程度の業績なのかを、世界的視野に立って、比較する必要がある(その為にも、ある程度の教養は必要となる)。

 相応の教養や見識があれば、上記で引用したような言説の詭弁も、即座に見抜けるようになる。「努力に報いる分配システムである能力主義は、不公平であると主張する。」、では逆に、努力に報いない分配システムは、公平であると言えるのか、と問えば、如何に馬鹿馬鹿しい主張であるかが分かるはずである。業績を生み出した者の努力に報いず、遊び呆けた業績のない者と、業績のある努力した者との結果を平等にするならば、それこそ不公平な悪平等社会になってしまう。
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鳩山首相、著作権保護期間延長に向け「最大限努力したい」

 たまには、鳩山首相も、いいことを言うな、と評価している。基本的に、欧米と同じ著作権保護期間にするのは当然だと考えている。著作権が欧米と同じように、著作者の死後50年間から70年間に保護期間が延びたとしても、図書館で読めるわけだから、それによって、一般の人々は何の不利益も被らない。そもそも、著作物が公表された直後ですら、引用は現行の著作権法上も、ルールに則れば自由なのだから、研究者等にとっても何の不利益にもならない。

 では、誰が困るかと言えば、他人が創作した著作物を自らは何の努力もせず、不当に利用しようとする連中だけが困るのである。だいたい、世の中には、人を殺してでも、他人の財物を奪い、美味い汁を吸おうとする凶悪な連中も存在するのだから、著作者の死後、すぐに著作権保護期間が無くなってしまうようであれば、不当利得を得ようと、売れそうな著作物の著作者を殺そうとする悪辣な連中が、跳梁跋扈するようになるのは、火を見るよりも明らかである。そのようなことを未然に防ぎ、民主主義社会の大原則である、言論の自由を守るためにも、著作権は、著作者の死後も相当程度の期間、保護されるべきなのである。

 そして、また、日本が、創造立国を目指す国家戦略を有するのなら、第一義的に尊重しなければならないのは、創作者であり、創造者であり、独創者なのである。故に、当然、不当利得を得ようと、他人の創作物を掠め取ろうとするような連中には、厳罰で臨むべきなのは、言うまでもない。

鳩山首相、著作権保護期間延長に向け「最大限努力したい」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0911/19/news036.html
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如月さんの掲示板での議論を転載(1)

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承諾が得られましたので、如月さんの掲示板で行われた議論を、以下に転載します。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi

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ライプニッツの『人間知性新論』 投稿者:佐々木 寛 投稿日:2009/10/02(Fri) 19:55 No.14977

 私が持っている、ライプニッツの『人間知性新論』は、米山優=訳の、みすず書房、2002年、第4刷なのですが、如月さんが「同書、工作舎、谷川多佳子&福島清紀&阿部英男=訳」から引用した部分が、ちょっと見つかりません。1ページの行数や1行の字数も異なると思いますので、当然、ページ数が違うのでしょうが…(もう少し探すつもりです)。

 10年ほど前になるかも知れませんが、ある人の掲示板で、議論になり、このような趣旨の事を書き込んだことがあります。

 「仮に、今この時に、ある人が、ここにコップが有りながら、無いと言えば、それは虚言(ウソ)であると同時に、論理的には矛盾でもある」。

 要するに、自然言語の虚言(ウソ)は、論理としての矛盾を表しています。ですから、矛盾という論理は、生得的では無くとも、自然言語(の規約)を習得する上で、後天的に身に付くと考えられます。

ライプニッツのテクストのことなど 如月 - 2009/10/02(Fri) 22:16 No.14991

 佐々木さん、エロい落書きばかりの掲示板への書き込みありがとうございます。
 私には今、ライプニッツのテクスト・クリティックをする余裕がないのですが、私の手元のテクストでいうと、Garnierの普及版には工作舎版のライプニッツ著作集に載っている文章に相当するテクストがありますが、Olmsのライプニッツ哲学著作集版には当該テクストがありません。ですから、もしかするとみすず版はOlms版に依拠している可能性があります。

     *     *     *

 ライプニッツの生得観念擁護については別に書きますが、彼の議論のポイントは、生得観念を擁護することにはなくて、われわれは意識にのぼることがないものをも知覚している、ゆえに経験や感覚だけで生得観念の存在や不在を議論することはできないということにあるようにおもいます。

     *     *     *

 また、それが何を意味するかを別にすれば、「自然言語」という概念もライプニッツ的にはやや問題のある概念といえるでしょうね。つまりそれは、「言語」は生得的かという議論に還元されます。ライプニッツ的に考えれば、矛盾律などの論理構造は生得的(ア・プリオリ)ですが、人間の言語は自然とも生得的とも考えられないとおもいます。ただおそらく、ライプニッツは矛盾律のような論理構造を一種の原初的言語ととらえているのですね。ですから、そういう意味では、「言語」は自然であり生得的であるとおもいます。ここであえて補足すれば、こうした原初的言語は、たとえば七歳の子供に日常的に意識されることはほとんどないわけです。

ロック&ライプニッツ&コンディヤック 佐々木 寛 - 2009/10/03(Sat) 17:04 No.15056

 ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させたのは、コンディヤックでしょう。コンディヤックと比較して、ライプニッツの認識論には、説得力が有りません。下記は、『人間認識起源論』からの引用です。

 「スコラ学者やデカルト主義者たちは、人間の認識の起源も生成過程も知らなかった。というのも、彼らは生得観念の原理や知性に関する曖昧な概念から出発したのであるが、そうしたものはこの[認識の起源や生成の]発見と何の関係も持たないからである。これに対して、ロックは感官から出発したので、この仕事をもっと巧みになし遂げた。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、244pより)
 「記号を使用することが徐々に魂の様々な働きを開発し、今度は逆にその開発された魂の働きの方が記号を完成させ、それを使用することに慣れさせていった。この両者が互いに助け合うということは、我々の経験が証明するところである。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、19pより)

 さて、如月さんには、同様のことを、渋谷の焼き鳥屋で以前、述べたと思いますが、幾何学における、「線とは、幅のない長さである」、などを例に上げて、これを経験に依ることのない概念だと断定することには無理が有ります。何故なら、我々は経験上、実際に、ある物の長さを物差しなどで測っている時には、その幅や厚みのことを無視(幅や厚みを無いものと仮定)しているからです。要するに、経験に依らないのではなく、逆に、長さを測るという経験から、「幅のない(幅を無視した)長さが、線として」、定義されたと考えるのが妥当です。
 また、「仮に、今この時に、ある人が、ここにコップが有りながら、無いと言えば、それは虚言(ウソ)であると同時に、論理的には矛盾でもある」というのは、日常的に、自然言語を使用する中で、経験し得ることです。そして、言語が生得的ならば、言語を持たなかった野生児の実例を、どのように説明するのか? という問題も有ります。ちなみに、以下に引用した、フランスのアベロンの野生児の例、および上記で引用した、『人間認識起源論』の出版は、ライプニッツ死後のことですから、ライプニッツは、それらを考慮していないことになります。

 「親から遺棄されたり、野獣にさらわれたりして動物たちとともに生活する子供は物語によく登場するが、実際に発見された子供はヨーロッパを中心にして数十例の報告がある。とくに有名な記録は、18世紀末フランス、アベロン地区コーヌの森で発見され教育者イタールにより訓練された11~12歳の少年ビクトールVictor(アベロンの野生児)、20世紀初めにインド、ミドナポルの森でオオカミに育てられたおよそ8歳 と2歳の2人の少女(アマラとカマラAmala & Kamala)などの教育訓練・養育の記録で、広く公刊され、学問的にも価値が高い。これらの野生児はいずれも発見されたときには言語をもたず、人間としての感情に欠け、野生としての行動が特徴であった。」(『日本大百科全書』、「野生児」、小学館より)

 追記:「Olmsのライプニッツ哲 学著作集版には当該テクストがありません。ですから、もしかするとみすず版はOlms版に依拠している可能性があります。」(如月さん投稿より)、なるほど、そうかも知れませんね。それから、書き込みの件は、礼には及びません。色々、教えて頂けることも有りますので…。

コンディヤックのライプニッツ批判への疑問 如月 - 2009/10/15(Thu) 23:34 No.15987

 上の方にも書きましたように、今、いろいろと細かいことを調べる時間的余裕がなく、十分なRESをつけることができずもうしわけありません。
 ただこれは逆に佐々木さんにお教え頂きたいのですが、コンディヤックの『人間認識起源論』は1746年刊行です。
 これに対し、ライプニッツの著作の多くは彼の生前に刊行されず(このため『人間知性新論』のテクストにもさまざまな異本が生じてしまうわけですが)、『人間 知性新論』は、1760年代の刊行です。また周知のように、現在彼の代表作の一つと見なされている『単子論』のフランス語原典の刊行にいたっては1840年です。
 こうした状況のなかで、コンディヤックはどのようにしてライプニッツを正当に批判することができたのでしょうか。このあたり、じっくりご教示頂ければ幸いです。

コンディヤックの批判では無く、私の批判です。 佐々木 寛 - 2009/10/16(Fri) 22:55 No.16067

 「コンディヤックはどのようにしてライプニッツを正当に批判することができたのでしょうか」(如月さん投稿より)

 誤解されているのかも知れませんが、上記の議論における、ライプニッツの認識論に対する批判の主要なものは、コンディヤックのものでは無く、私のものです。

 「幾何学(の公理)における、「線とは、幅のない長さである」、などを例に上げて、これを経験に依ることのない概念だと断定することには無理が有ります。何故なら、我々は経験上、実際に、ある物の長さを物差しなどで測っている時には、その幅や厚みのことを無視(幅や厚みを無いものと仮定)しているからです。要するに、経験に依らないのではなく、逆に、長さを測るという経験から、「幅のない(幅を無視した)長さが、線として」、定義されたと考えるのが妥当です。」(私の投稿より)

 おそらく、これは、幾何学の公理が、経験的に得られる根拠を明白に示した、世界初の例かも知れません。実を云うと、私自身、小学生のころには、「幅の無い長さ」など経験できないものだし、経験からは得られないと考えていました。しかし、本当に、そうだろうか、と考え続けて、ようやく、上記のような例を考え付いたのです(考え付いてみれば、当然のことにしか思えませんが…)。

 ロックの経験論的認識論を一歩前進させたのが、コンディヤックだと述べましたが、実は、仏教哲学がロックやベーコンより二千年ほど前から、経験論的に、五官および六根による知覚を重視しています。西洋人が日本など(東洋地域)に来たころとも符合しますし、西洋の経験論哲学は、仏教の影響下にある可能性が高いと、私は考えています (私のサイト〔下記にリンク〕に掲載している論文でも述べていますが…)。それはさておき、ロック以降を要約すると、認識は、感官からの経験によると述べたのがロックで、それに言語(記号)の重要性を付け加えたのが、コンディヤックです。さらに私は、それらに加え“価値”の重要性と、その“三つの要素の整 合性”が重要だと考えています。手前味噌ですが、コンディヤックを一歩前進させ得たものだと自負しています。ちなみに、このことについても、私は自らの論文で述べています(実を云うと、コンディヤックの『人間認識起源論』を読んだのは、論文を書いた後のことですが…)。

 「一般的に認識というものは、対象となる事実経験(対象事実)と、論理一般(名辞:記号、概念:観念、論理:構造)の無矛盾性と、価値一般(正と負と中立の価値および全的価値と個別価値など)との妥当性という、三種の要素の整合性によって齎(もたら)されるものと考える。」(私のブログ『エッセー哲学的』より引用)

【哲学】『エッセー哲学的』佐々木 寛
http://sasaki01.blog38.fc2.com/blog-entry-10.html
一神教の絶対主義と多神教の相対主義 佐々木 寛
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/sh.thesis.hp-index.html

山口氏による「自然な獲得過程の仮構性」の指摘 如月 - 2009/10/17(Sat) 00:27 No.16071

 ご教示ありがとうございました。しかし、ロックとライプニッツそしてコンディヤックやエルヴェシウスに関して私が問題にしたいのは、佐々木さんのようなスケール雄大な発想に基づくものではなく、もっとせせこましいものなのです。

 コンディヤックに関しては、彼の思想を仏教と比較するというより、たとえば山口裕之さんの次のような指摘の妥当性について私は考えてみたいわけです。

 「そもそも教育とは、幼児が自分で形成した観念に記号をあてがい、その形成順序を自覚させることなのであろうか。そうした教育が可能であるためには、記号を教 える側が、幼児がいかなる観念を形成したかを知っていなければならないが、それをいかにして知ることができるのか。むしろ、第4章で論じたとおり、言語を習得するとは記号を契機として観念を探求することである。つまり幼児は、自ら形成した観念に記号をあてがうことを教えられるのではなく、記号を先に教えられ、それが示す観念を探すことで言語を習得するのである。その際、教えられる記号のほとんどは、幼児にとって未知の観念の記号である。幼児が自然に従って自ら形成した観念など、現実的にはほとんどありはしないのだと言わねばならない。ところで、こうした教育は、コンディヤックの言うところの「悪しき教育」、言葉のみを先に教え込む教育である。だとすると、およそ言語を学ぶ全ての幼児が、コンディヤックの言うところの「悪しき教育」を受けて成長するということになるのではないか。一言で言って、コンディヤックが理想とするような自然な分析を自ら遂行する幼児など実在しないのではないか。そして実際、コンディヤック自身が、自らの論じる「自然」な幼児の発展過程は実際に観察されたものではないことを認めているのである。
 「自然を研究するためには、幼児において我々の諸機能の最初の発展を観察するか、我々自身が達成したことについて思い出すことが必要であると思われる。しかしその両方とも困難である。…今日我々が認識を獲得するときに、我々はいかにして自らを導くのかを探求することに限ろう。もし我々がいくつかの認識を確証することができたなら、そしてその認識を獲得したやり方を確証することができたなら、我々はいかにして更なる認識を獲得することができるかを知ることができるのである」(『論理学』)

 コンディヤックの言う「幼児」は実際に観察されたものではなく、むしろ「今日我々が認識を獲得するときに、我々はいかにして自らを導くのか」をモデルにして仮構されたものなのである。そして、幼児の状態を想定するような推論が記号によって為されたことは間違いない。つまり、記号による分析が模範とすべきだとされる「自然」な順序は、実のところ記号による分析によって形成されたと見るべきなのである。」(同氏『コンディヤックの思想』勁草書房、2002年、241-3頁)

支那(中国)思想のフランス西漸 佐々木 寛 - 2009/10/18(Sun) 10:48 No.16165

 以前、如月さんから教えて頂いた、後藤末雄の『支那思想のフランス西漸』は、今から70年以上前に出版されていますね。非常に優れた内容の論文だと思いますので、ここで少し、その最近の改訂版から引用したいと思います。以下は、『中国思想のフランス西漸(2)』、後藤末雄=著、矢沢利彦=校訂、平凡社、2003年の、本文からの抜粋です。

 「古来、中国では完全に信仰の自由が認められていた。中国には祖先教、儒教以外に仏教、喇嘛教が信奉され、かの基督教は、一六九二年康熙帝時代に公許された。「信仰の自由の使徒」と呼ばれたヴォルテールはこの点において、全く中国の法制に魅惑されたのである。殊に雍正帝は「日本における基督教徒の叛乱」に鑑み、宣教師の異教不認容主義が内乱を醸成することを憂慮し、断然宣教師を駆逐した。この皇帝こそ政治と信教とを識別し、全然この両者を分離することが出来たのであった。換言すればヴォルテールの理想は、中国皇帝によって実現されたのである。それ故、彼は雍正帝の宣教師に与えた勅言を賛美し、帝をもって「神が人間に与えた名君のひとり」とまで激賞したのである。
 私の列挙した中国文明の特徴、道理の尊重、迷信の絶無、賢明な専制政治、法制に現われた仁愛の観念、道徳の奨励、平等の精神、信仰の自由は、皆ヴォルテールの精神であり、その提唱であった。そして中国思想がヴォルテールの生前から耶蘇会士によってフランスに西伝されたこと、また彼が著書中で中国の文物制度を賛美すること、殊に彼の提唱の多くが中国思想と合致することに立脚して、この社会哲学者の意識中に中国思想の影響を認めるものである。」(前掲書、122pより)

 少し補足しておきますと、この当時の、中国というのは、女真(満洲)民族に征服されており、皇帝は、満洲人です。ですから、当時の、満洲人の中国皇帝は、ヴォルテールが激賞するほど、賢明だったということになります。ちなみに、漢民族(中国人)でありながら、中国思想を撲滅しようとした例は、始皇帝の「焚書坑儒」から、毛沢東の「文化大革命」まで、かなり大規模で、徹底したものがあります。要するに、幾人かの中国人の為政者(独裁者)にとって、中国思想というのは、撲滅しようとしなければならないほど、邪魔なものだったのでしょう。それはさておき、このように、東洋思想(特に儒教)が西洋人(ヴォルテールなど)に影響を及ぼしていることを明白にした後藤末雄の優れた議論を、その後70年以上、後進の者が誰も展開していないのは、怠慢にしか思えないこともないのですが、遅ればせながら、私が、儒教の他に、ヨーロッパ近代の哲学思想のうち、特に経験論哲学(ベーコン・ロック・ヒュームなど)が、仏教哲学からの影響である可能性の高いことを、自らの論文で示し得たものと自負しています(実は、私が論文を書いた時は、まだ後藤末雄の論文を読んでいなかったのですが…)。

 それから、私が、コンディヤックの『人間認識起源論』を読んだ限りでは、教育、特に幼児教育に関する記述は余り無かったように思っています(コンディヤックの別の著書では有るのかも知れませんが…)。いずれにしろ、我々は生後、後天的に、母親などに育まれながら、言葉を、赤ちゃん言葉から習得してきたと思っていますが(そうでない場合は、言葉を持たない野生児のようになる)、ただ、その内容については、また別に、研究する必要のある問題ではないかと考えています。

支那(中国)思想のフランス西漸 (後藤末雄)
http://www.furugosho.com/precurseurs/mably/gotoh.htm

ライプニッツの言語観についての補足 如月 - 2009/12/20(Sun) 22:54 No.21616

『人間知性新論』を読み進めていくうちにライプニッツの言語観についての私の書き込みは不十分だと気がつきましたので、以下に若干補足しておきます。

     *     *     *

 さて、われわれが日常使っている言語に関して、ライプニッツはそれそのものが「生得的」だとは考えていないとおもいますが、それとは別に、個々の単語や発音にはそれなりの根拠があると主張しています。それはどういうことかというと、日常用いられる言葉のなかで、彼は特に擬音語に注目していますし、それとは別に「l(エル)」とか「r(アール)」の発音も、その単語の指示対照のなんらかの状態を反映しているのではないかと考えていたようです。つまり、個々の単語には、それがそのように発音される「充足理由」があるはずだというのがライプニッツの考えですね。ですから、言葉が完全に恣意的なものだとは考えていない。
 一方彼は、フランス語やイタリア語が、ラテン語が変化して生まれたものだという認識ももっていますし、それをさらに普遍化して、ヨーロッパ(キリスト教圏)のさまざまの言語の祖語のようなものがあったのではないかといったことも考えている。で、この祖語(それを彼は「アダムの言語」と呼びます)は、現代の言語よりも指示対照と言葉がもっと緊密に結び付き、いろいろなものを明確に伝えることができたはずだというようなことも想像しているのですね。では、この「アダムの言語」をライプニッツが「自然言語」と見なしていたかというと、私はちょっと疑問があります。
 ところで、言語に関するライプニッツの関心が、もう一方で、普遍言語に向かっていったことはよく知られていますよね。それは、言語に論理的な明晰性を求めたからで、思考と言語(記号)の一致が彼の理想だったのではないでしょうか。この普遍言語は、日常的に使用されている言語とは異なる人工語とならざるを得ないでしょうし、いまだ存在したことのない言語ということになるとおもいますが、人間の思考に忠実という意味では、むしろこれをこそ一種の「自然言語」と呼んでもいいのではないかというのが、私の考えです。
 それともう一つ補足しておきたいのは、こうした普遍言語探求の観点から、ライプニッツは中国語と漢字に非常に注目していたということですね。つまり、漢字は、アルファベットと違って表意文字と表音文字を兼ねているので、観念と言語のある種の一致が達成されているのではないかとして、強い関心をもっている。また森羅万象を「0」と「1」の組み合わせで表現する「易」に対する彼の関心も有名です。
 ですから、普遍言語の探求といっても、ライプニッツが考えていたのは、エスペラント語のようなヨーロッパ言語の簡略化・完全化の方向ではなく、中国語と漢字のロジックを含めた、かなり抽象的なものだったのではないかという気がします。
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如月さんの掲示板での議論を転載(2)

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承諾が得られましたので、如月さんの掲示板で行われた議論を、以下に転載します。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi

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経験こそが概念から生み出されるものです。 投稿者:くまげん7 投稿日:2009/11/01(Sun) 11:51 No.17225

 初めまして。

 カントの純粋理性批判がもたらした業績を寛さんがまた暴発して無視しているようですね。
 空間というものは<人間が世界を認識する形式>です。
 ですから、人間が考える以上、経験には空間という形式がついて回ります。
 同じことを時間にもいえます。

 空間も時間も人間が世界を認識するための形式であり、この形式がどのような形式なのかを表現する形式をアプリオリ(先験的)には人間はもっていません。

 寛さんは経験の中で幅を写像して考えているから…とおっしゃられてますが、幅の無い線は存在します。点、線、面の順番で考えるからそんなことになるわけです。
 面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。その面が二つあった場合その間には線が生じます。この線には<幅がありません。>
 面が三つ交わったところには頂点ができます。この点には面積はありません。(そもそもが大きさがないのです。)

 これらのことは我々が知覚の限界として面、線、点、というカテゴリーをもっていることを示しています。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 佐々木 寛 - 2009/11/02(Mon) 19:16 No.17311

 こんにちは、くまげん7君

 「経験こそが概念から生み出されるものです。」(くまげん7君の投稿より)

 経験こそが、概念から生み出されるものという、くまげん7君の説は、「概念から経験が生み出された」と言い換えることができると考えます。ところで、広辞苑によると、哲学的に経験というのは、「感覚・知覚を基礎にして知的活動までを含む体験の自覚されたもの」と有ります。

 「面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。」(くまげん7君の投稿より)

 上記の引用で言う、「最初に認識する」や、「ものの見かけ」というのは、どういうことなのか? 普通、ものの見かけというのは、ものの外見のことで、見るという感覚から得られるものです。また、「面」というのは、常識的に言って、広がりのある平らなもののことでしょうが、広がりとか、平らというのも、経験的なものでしょう。そして、それらが、「最初に認識」されるとすれば、これは、経験論以外の何ものでもないことになります。

 ですから、「概念から経験が生み出される」という、最初の引用とは、正反対の意味になると考えます。くまげん7君は、自分で自分の言っていることが、理解できているのか、はなはだ疑問です。

みなさん、ありがとうございます。 如月 - 2009/11/07(Sat) 12:06 No.17738

 くまげん7さん、佐々木寛さん、○○○さん、興味深い投稿や回答ありがとうございます。
 経験と認識について私からもみなさんに教えていただきたいことがいろいろありますが(私自身は、当面の問題に関しては、とりあえず「経験」と「経験知」を分けて考えた方がよくはないかとおもったりしています)、小サイト内の↓「デイドロとモリヌークス問題」のページなどもご参照頂ければ幸いです。

http://www.furugosho.com/precurseurs/diderot/molyneux.htm

「経験知」についての補足 如月 - 2009/11/07(Sat) 17:52 No.17753

 それと、カントのことはきちんと勉強していないのでよくわかりませんが、私が「経験」と「経験知」を分けた方がいいのではないかと思うのは、経験という概念を無制限に拡大していくと、たとえば「Cogito ergo sum」という命題も、cogito(私は考える)という自己の経験もしくは体験に基づくものであり、経験による自己存在の確認だとなりかねないからです。
 もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。だから、人間のほとんどの知は経験によって明白になるもしくは体得されるものだとしても、「経験知」と呼べるものはその一部であるとした方がいいのではないかというのが、今、私が考えているアイデアです。もっとも、すると今度はいったいどのようなものが「経験知」なのかということになって、これはこれで難しいんですけど、まあ、身体的な技術なんかはそれに入るんじゃないかとおもっています。

数の概念もちょっとやっかいですね 如月 - 2009/11/07(Sat) 18:15 No.17756

 ついでにもう一つ私が感じている疑問を記しておきますと、たとえば、数の概念の把握が経験的なものか直感的なものかよくわかりませんが、大きな数の概念の把握を経験に帰することができるのかということですね。
 たとえば、「十」の概念であれば、あるものを1、2、3…と数えていった結果把握した経験による概念だといってもいいとおもいますし、「百」もそうかも知れません。でも、「万」とか「億」を、これと同じような意味において経験によって把握される概念といっていいのかどうか。もしその把握が経験によらないとすれば、それは何によるのかということですね。
 また、同じように考えていくと、「無限」というのもちょっとやっかいな概念ですね。だから「無限」なんて現実には存在しないんだと言っちゃってもいいんですけれど。

追風(おいて)に帆かけて 佐々木 寛 - 2009/11/07(Sat) 19:16 No.17763

 「もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。」(如月さん投稿より)

 如月さんは、心配性なんでしょうか…(笑)。ある経験から得られたものから、ある性質を抽象したり(長さ)、捨象したりして(幅)、ある概念を生み出し(線とは幅のない長さ)、さらには、生み出された概念を基に、他の概念との関係の中から、また新たな概念を生み出してゆくならば、そのような創造的な能力がある限り、我々の精神には、幸の限り無い、豊かな海が、広がってゆくのではないでしょうか…(さぁ、帆を、かけよう)。

金毘羅船々(こんぴらふねふね)、追風(おいて)に帆かけて、シュラシュシュシュ…(笑)。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/konpirafune.html

 一つずつでも、限り無く、加えるという、規約があれば、兆や京や垓の単位を越えて、可能性として、無限は考えられます(問題ありません)。

 「視覚作用の最初の瞬間には、多数の混乱した感覚印象を受けるにすぎず、それはただ時間とともに、また、私たちのなかで起ることについて反省を重ねるにつれて、次第に判断されるようになるのです。感覚印象を、それを惹き起したものと比較することをわれわれに教えてくれるのは、ただ経験だけであり、感覚印象は事物と本質的に類似しているようなものは何ももっていないので、純粋な約束事のように思われる感覚と事物の類比について教えてくれるのも経験です。」(下記リンク先の、如月さんのサイトより引用)

ディドロとモリヌークス問題
http://www.furugosho.com/precurseurs/diderot/molyneux.htm

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/11/21(Sat) 12:40 No.19213

 ものすごい遅いレスで申しわけありません。

 まず、あまりにも話をあいまいに考えすぎです。

 概念=定義とすれば、それが経験に先立たないのは明らかです。なぜなら、定義とはことばでされるものであり、私的ではなく社会的なものだからです。

 一方で経験とは個人的で肉体を通じて得られる「現象」を様々の方法で「記憶した結果」です。

 したことであっても覚えていなければ経験ではないのです。

 そのひっかかりを如月さんは「経験」と「経験知」という言い方で表していますが、それは体験=経験としてしまっているからです。体験は経験ではありません。

 そう考えれば「経験=経験知」であることがわかります。

 ならば、経験がどうして記憶できるのかということを説明しようとしたのがカントの「純粋理性批判」なのです。

 それは「人間が予め(先験的・アプリオリ)認識する形式をもっているから」と仮定しました。だから、その認識する形式を越えた概念(超越論)はもともと意味がないという結論をもってきたんです。

 ところが、なぜ、超越論はされてしまうのかについてカントは「馬鹿だから」みたいな答えしかしてません。それを超越論的批判が哲学の仕事だってカントは言うんです。

 実は概念は定義である。定義はことばであると最初に書きました。認識の構造は超越的ではないのですが、ことばの構造が超越的だからこそ超越論が生まれてくるのです。(経験してもいないことを在るものとして語れるのはことばの形式のせいなのです。)

概念と経験 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:30 No.19351

 くまげん7さん、ようこそ。先日来、概念と経験との関係がどうもすっきり腑に落ちないので、自分なりに以下のようにまとめてみました。まだ整理の途中ですので、不十分なところがあるかもしれませんが…。くまげん7さんの新しいコメントにつきましては、もう少し考えます(特にコトバとのかかわりのあたり)。

 ①ものさし、電話、TV、PC、USBメモリースティック
 これらに関しては、そうした道具的存在物およびその概念や観念がわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在し、その概念(機能)を知ることによってわれわれはそうした道具的存在物をそれと認識し、経験・使用する。

 ②山、海、砂漠
 ①と同様、これらの概念や観念もわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在するが、場合によっては、山中に生まれたり、海 辺に育ったりして、明確にそれと知覚する以前にわれわれはそれを体感・知覚することがありうる。その場合、概念形成は体感後に、体感をとおして行われると考えられる。またその際、たとえば山の概念を明確に形成するためには、山以外の場所を体感・経験し、それを相対化することが有効と考えられる。
 ただしたとえば山中に生まれ育ったのではない場合、はじめに遠くから山を見るなどして概念が先に形成され、後から実際に山を知る(体感する)ということはありうる。この場合は①と同じ。

 ③空間、時間
 これらは、山中に生まれ育った人にとっての山の概念形成と似ているが、われわれがそれから離れて相対化することができないことから、明確な概念形成は困難で ある。あるいは、考え方によっては、空間や時間の概念のなかにはつねにわれわれの実存が含まれていると見なすことができるかもしれない。

 ④痛み、空腹
 これらの身体的概念は、体感・経験が先に生じ、その体感・経験を反省・分析することによって概念が形成される。これらは実存的な概念ではあるが、相対化・客観化も可能。

 ⑤線、円
 これらの幾何学的概念や観念に関しては、線的なるもの、円的なるものが知覚・経験されることがあっても、厳密な意味での線そのものや円そのものが経験されることはありえない。これらは概念や関係としてしか存在しない。

概念と定義 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:39 No.19353

 それと、先日来、「概念=定義」という定義は、私もどうもまずいんじゃないかとおもっていますが、その問題は別に検討してみたいとおもっています。
 どこがどうまずいかというと、私のぼんやりとした感じでは、定義の一般的なフォルムとしては、「AをBとする(呼ぶ)」というものがあるとおもうんですが、この場合、AとBの関係は「=」で結べるようなものではなく、恣意的なものではないかという気がするからですね。
 でもまあ、この疑問は、ある意味で形式的なものですから、あとでちょっと考えればいいかなともおもってるんですが…。

「覚えていなければ経験ではない」 如月 - 2009/11/22(Sun) 16:58 No.19392

 え~と、それから、「したことであっても覚えていなければ経験ではない」というくまげん7さんの言い方は、私にはとても興味深いです。ライプニッツが『新人間知性論』のなかでロック(フィラレート)にぶつけている大きな論点の一つはそれだとおもうのですね。上方のスレッドで引用している井上龍介さんの用語を利用させてもらえば、「サブリミナル」を認識論的にどうとらえるかということになるでしょうか。
 つまり、人間の知性形成における「経験」の重要性はライプニッツも充分承認しているのですが、サブリミナルというか無意識という概念を導入すると経験論は破綻するだろうというのがライプニッツの見通しですね。また、それと同時に「個」の実存もかなりあやうくなると私はおもいます。
 ライプニッツの認識論とは、そういうギリギリのところにたった認識論ではないでしょうか。

№16447の投稿より抜粋し再掲 佐々木 寛 - 2009/11/23(Mon) 09:48 No.19498

 「たとえば、睡眠中にもわれわれは周囲の音を聞いており、大きな音がすると目を覚ますのはそうした睡眠中の知覚(表象)だとライプニッツは言います。いずれにしても、ライプニッツは、日常、膨大な表象のほんの一部だけが「意識的表象」としてわれわれに現前しているとするわけですね。エルヴェシウスには、ここまで精緻な無意識論はありませんが、無意識についての基本的な考え方は同じであると考えられます。」(如月さん投稿より)

 ですから、「たとえば、睡眠中にもわれわれは周囲の音を聞いており、大きな音がすると目を覚ますのはそうした睡眠中の知覚(表象)だとライプニッツは言います。」というのは、要するに、睡眠中でも(無意識に)知覚が働いていることを、大きな音がすると目を覚ますという、“経験”から、その存在(無意識)が考えられたということなのです。ちなみに、バートランド・ラッセル流に言えば、大きな音は、センス・データ(sense-data:感覚与件)として、得られるものですね。(私の投稿より)

 上記は、№16447の投稿より抜粋し再掲したものです。広義の意識に含まれる無意識と、いわゆる狭義の意識とは、全く無関係に存在しているものではないことは、「睡眠中でも(無意識に)知覚が働いていることを、大きな音がすると目を覚ますという、“経験”から、その存在(無意識)が考えられたということ」からも、明白でしょう。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/11/28(Sat) 16:12 No.19989

 如月さん。

 道具も山も川も概念です。ですから、この概念(社会的恣意性)がなければ、山も川も存在しません。

 わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです。

 いや、わたしが死んでも、わたしが見ているあの山は存在するはずだ。これまでと同じように…。と考えるのは実はある手続き上の間違いをしています。

 「わたしが見ているあの山」はわたしの経験です。
 これまでと同じようにという歴史性は、誰の経験でしょう? …これは社会(ことば=言説)の経験です。
 実は外部世界=宇宙の普遍を語ろうとして、ことばの普遍をこの文章は語っているだけなのです。

 経験とは社会的なものなのです。それに対して体験とは、個人と世界が別れるあいまいな領域に属するものです。

 何も考えなくても車を運転して目的地に着くことがありますね。これは行為の自動化(刺激と反応が適切に結びつき思考を意識せずに行われる状態)のためです。ここでは、私は運転と合一しているし、車の外の情報とも合一しています。むしろ、私なんてことも考えていません。

 夢はそれとは別にわれわれが象徴系の混乱を常に抑圧していることを実感できます。母が恋人だったり、牛だったりするのは「意味」があります。それを外からの刺激に単純に結びつけることはできません。刺激が何に結びつくかは規定できないのです。

expression 如月 - 2009/11/28(Sat) 22:20 No.20008

 くまげん7さん、こんにちは。
 とりあえずライプニッツについての現在の私の読解とからめながらお返事させて頂きます。

 まず、「何も考えなくても車を運転して目的地に着く」という比喩は、ライプニッツもとても喜びそうですね。
 ただ、「概念(社会的恣意性)がなければ、山も川も存在しません。わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです」というところは、もう少し言葉を補って説明して頂けるとありがたいです。
 というのは、少なくともライプニッツの認識論・存在論は、それとは少し異なるタイプのもののような気がするのですね。
 ライプニッツ的に考えれば、「山や川、また道具的存在物が存在するかどうかというのは、認識上の問題というより、それらの事物が「充足理由律」を満たしているかどうかの問題で、それが満たされていれば、われわれの認識にかかわりなく事物は「(外界に)存在する」ということになるでしょうし、同時にそれらはモナド内に観念として存在し、その内界と外界が「予定調和」しているのだということになるとおもいます。
 また、もう少し厳密にいうと、「(外界に)存在する」という風に一般的にいわれる現象は、モナド内部の観念の表出(expression)だということになるのですね。
 で、これを要約すると、くまげん7さんの命題「概念がなければ、山も川も存在しません。わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです」となりそうで、どうもやはり少し違う気がするのです。
 これは、ライプニッツの場合、モナドが複数であり、かつ共通の概念を共有しているからかなともおもいます。こう考えると、ライプニッツの哲学は一見モナド中 心の独我論のようでありながら、モナドの複数性というところで、社会性という視覚をもちうるようにもおもうんですね。その概念や観念の社会性を保証しているのがコトバということになるのでしょうか…。

 それと、「経験」と「体験」という概念をくまげん7さんのように明確に二分してしまうことには、私はあまり賛成ではありません。
 このスレッドのなかで、「経験」という言葉があまりにも曖昧で恣意的に使われているように感じたので、上方の書き込みのなかで「体験」という言葉を使ってみたのですが、少なくともフランス語と英語ではどちらも「experience」ですから、これをあまり厳密に考えると、それはそれで不都合が生じるようにもおもいます。

 いずれにしても、「経験知」という概念は、ライプニッツの認識論のなかでは極めて居心地がわるいのです。

経験と計算能力 如月 - 2009/11/28(Sat) 22:33 No.20009

 佐々木さんの書き込みは難しくて、私にはどうおこたえしたらいいかよくわからないのですが、少なくとも直前の書き込みに関して言えば、「“経験”から、無意識なりあることの存在を知る」ということを私は否定しませんし、おそらくライプニッツも否定しないとおもいます。
 ただ、われわれの「知」というのは、そうした経験から得られるものがすべてではないと私はおもうのですね。
 たとえば計算能力を考えると、「1+1=2」とか「10+15=25」のようなものであれば、指を折ったり、モノで代用するなりして数えた実体験からそうした実感や解答を導きだすことができるかもしれませんが、たとえば「258,568+609,359」のような計算は、直接的な経験知や体験ではなく、経験知の応用によって解答を導き出すのではないでしょうか。それと、この「258,568」なり「609,359」といった数の概念(私はそれを適当に書いただけですが)も、われわれがこれらの数を経験したことがあるからその概念を把握しているとは言えないのではないでしょうか。
 私が考えているのは、その程度の単純な疑問です。

顕微鏡とexperience 如月 - 2009/11/28(Sat) 23:49 No.20011

 くまげん7さん、佐々木さん。
 それとライプニッツの知識論にとって見逃せないのは、彼はスワンメルダムやレーウェンフックらの生物学者と直接・間接の交流があるということです。ライプニッツの時代は、顕微鏡の精度があがって、細胞や精虫などの新しい発見が次々に行われていますが、顕微鏡による視覚の問題は、直接的には微小知覚の問題、つまりある事物を拡大したらどのように見えるのか、そこで展開している現象はわれわれの通常の視覚下の現象とはまったく様相を異にしているのではないか、とすると現象の本質とはどこにあるのか、どのようにしたらそれを確定できるのか(もし顕微鏡の精度がさらにあがれば、事物はさらに別様に見えるのではないか)という論点につながっていきます。ですから、ライプニッツの場合、顕微鏡による知覚は、彼の知識論・認識論形成に大きな影響を及ぼしているのです。
 また同時に、この顕微鏡による視覚の問題は、より広く、われわれのexperienceとは何なのかという論点を引き起こすとも言えるでしょう。つまり、顕微鏡という「道具」を用いて事物を観るというexperienceは、明らかに、直接的なexperience physique(身体的経験、体験)ではないが、これもまたexperienceであることは否定できないという論点ですね。
 私は、この問題意識は、ライプニッツとエルヴェシウスなどの18世紀の唯物論者に共通する意識だと考えていますし、おそらくコンディヤックもこうした問題意識を共有していたのではないでしょうか。

必然的真理の潜在的認識が生得的 如月 - 2009/11/30(Mon) 22:52 No.20166

 ご参考までに、ライプニッツ『人間知性新論』のなかの生得概念に関する議論の一部を以下に引用しておきます。

     *     *     *

 テオフィル「自然の光と呼ばれるものは、判明な認識を前提としており、事物の本性の考察はたいてい、私たちの精神の本性の認識と、外部に探す必要のないあの 生得観念の認識にほかなりません。かくして私は、検証するにはそういう考察しか必要としない真理を、生得的と呼んでいます。生得的概念が精神のなかに暗に含まれていると言われるとき、そのことは精神がそれらの概念を認識する能力をもつことだけを意味すべきだ、とする反論には、私はすでに答えました。そうした生得的概念を自己の内に見出す能力と、それらについて然るべく思考するときはそれらを認める態勢を精神はもっていることを、指摘しておいたのですから。」
 フィラレート「そうすると、それら一般的準則を初めて提示された人々はまったく新しいことは何ひとつ学ばない、とあなたは主張しているようです。でも彼らは最初に名を学び、次に、真理や、真理が依存している諸観念さえも学ぶことは明らかです。」
 テオフィル「ここでは名称が問題なのではありません。名称はある程度恣意的ですが、観念や真理は自然的です。しかし、これらの観念や真理に関してあなたは、私たちにきわめて縁遠い学説を私たちのものとみなしています。なぜかというと、生得的な観念や真理を、それらの源泉に注意を払うか、経験によってそれらを検証するかして学ぶということを、私は認めているからです。あなたの話題にするケースでは、まるで私たちは新しいものを何ひとつ学ばないかのようですが、以上のようなわけで、そう考えてはいません。また私は、人が学ぶすべてのものは生得的でないという命題も認めません。数についての真理は私たちの内にありますが、それでも人はそれらの真理をやはり学ぶのです。論証的理性によって学ぶときはそうした真理をそれらの源泉から引き出すことによって学び(これは数が生得的であることを示しています)、あるいは、通俗的算術家がするように、実例のなかで経験的に知ることによって学ぶのです。通俗的算術家は、理由を知らないために、真理の規則を単に伝統によって学ぶだけですし、せいぜい、それらの規則を数える前に、適切と判断する範囲の経験によってそうした規則の正しさを証明するにすぎません。(以下省略)」
 フィラレート「しかし、人々が使っている名辞や言葉のみならず、観念もまた外部から私たちにやってくることはありうるのではないでしょうか。」
 テオフィル「そうなると、私たち自身が私たちの外部にあるのでなければならなくなります。なぜなら、知的観念ないし反省的観念は、私たちの精神から引き出されるからです。もし私たち自身が存在者でなく、私たちの内に存在を見出すのでもないとしたら、私たちはいかにして存在の観念をもちうるのか、知りたいものです。」
 フィラレート「しかし、私の友人の一人が次のように言って挑戦したら、あなたは何と答えますか。『もし誰かが、それを構成する観念が生得的である命題を見つけて私に挙げてくれるなら、私にとってこれほど嬉しいことはないでしょう』、と。」
 テオフィル「私ならその彼に、算術的命題と幾何学的命題を挙げます。これらの命題はすべてそうした本性をもっています。必然的真理については、そうでない命題は見つかりますまい。」
 フィラレート「それは、多くの人々にとって奇妙に思えるでしょう。最も難解で深遠な知識が生得的だ、などと言えましょうか。」
 テオフィル「それらの知識の現実的認識が生得的なのではなくて、潜在的認識と呼べるものが生得的なのです。ちょうど、大理石の石理の描く形が、加工によって発見される前に、大理石のなかにあるようなものです。」
 フィラレート「しかし、外部からやって来る概念を受けとりそれに同意を与えているのに、子供たちは、生得的で自分たちの精神の一部をなしていると想定される概 念についてはいかなる認識ももたない、などということが可能でしょうか。そうした概念が消し難い文字で精神に刻まれていて、基礎として役立つと言われているのにです。もしそういうことが可能ならば、自然は無駄な骨折りをしたことになる。あるいは少なくとも、自然はそれらの文字を下手なやり方で刻み込んだことになる。他の事物はよく見える眼が、それらの文字を読み取れないわけですから。」
 テオフィル「私たちの内部にあるものの意識表象は、注意と秩序に依存します。ところで、注意は生活の必要によって導かれていますから、子供たちが感覚的概念により多くの注意を払うのは、可能であるばかりか適合したことでさえあるのです。それでも自然は私たちに生得的認識を刻むのに少しも無駄な骨折りをしたのではないことが、これから分かります。生得的認識なくしては、論証的諸学における必然的真理の現実的認識や事実の理由に達するためのいかなる手段もないし、私たちは動物に優るものを何ひとつもたないことになるからです。」(『人間知性新論』第一部第1章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、75-78頁)

生得的原理が即座に明証的とは限らない 如月 - 2009/12/01(Tue) 09:05 No.20198

 フィラレート「いかなる義務も法の観念を伴っているし、法を定めた立法者や賞罰なくしては、法が知られたり想定されたりすることはありえません。」
 テオフィル「立法者がいなくとも自然的な賞罰はあります。たとえば、不節制は病気によって罰せられる。けれども、不節制が即座にすべての人に害を及ぼすわけではない。だから、いかなる罪にも必ず罰を与え、いかなる善行にも必ず報奨を与える神がいないとしたら、ぜがひでも従わなければならぬ掟などないも同然であることは認めます。」
 フィラレート「すると、神の観念や来世の観念も生得的でなければなりません。」
 テオフィル「私が説明してきたような意味では、その通りです。」
 フィラレート「しかし、それらの観念はすべての人間の精神に自然的に刻み込まれているどころではなく、事物を多少なりとも厳密に検討することを生業としている多くの学識者たちの精神にさえ、さほど明晰判明には現れません。ましてや、いかなる人にも知られているなんて、とんでもないことです。」
 テオフィル「知られていないものは生得的でないとする想定を、私は幾度となく反駁してきましたが、またその同じ想定に逆戻りですね。生得的なものであるからといって、即座に明晰かつ判明に知られるわけではありません。生得的なものに気づくには、しばしば注意と秩序が大いに必要です。学識者がそれを常になし遂げているとはかぎらない。すべての人となればなおさらです。」
 フィラレート「しかし、もし人々が生得的なものを知らずにいたり疑ったりできるなら、生得的諸原理について私たちに語ってその必然性を分らせようとしても無駄です。それらの原理は、事物の真理と確実性を私たちに教えるのに役立ちうる、と主張されていますが、少しも役には立ちません。ですから私たちは、それらの原理があっても、私たちの内にそれらがないのと同じく不確実な状態に留まるでしょう。」
 テオフィル「すべての生得的原理を疑いうるとはかぎりません。自同的なものや矛盾律については、あなたもそのことに同意し、疑いえない諸原理があることを認めました。その際あなたは、それらの原理が生得的だと認めてはいませんが。しかし、生得的であるもの、そしてそれら生得的原理と必然的に結びついているものがすべて同様に、疑う余地なく即座に明証的であることにはなりません。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作 集』第四巻、90-91頁)

 フィラレート「慣習や教育や私たちが交わる人々の一般的意見は、生得的と想定されるこれら道徳の諸原理を曖昧にしうると言われてきました。しかし、もしこの反論が正しいとすれば、普遍的同意に基づくとされている論拠は無に帰してしまいます。多くの人々の推論はこうなってしまいます。良識ある人々が認める諸原理は生得的である。私たちと私たちの仲間は良識ある者たちである。ゆえに、私たちの諸原理は生得的である。何と愉快な推論の仕方でしょうか。無謬性へのまさに近道です。」
 テオフィル「私はと言えば、普遍的同意を、主要な論拠としてではなく確認として使っています。なぜなら、理性の自然な光と考えられた生得的原理は、あなた自身が疑いえないものと認める直接的原理に含まれているので、幾何学と同様にその刻印をもっているからです。しかし、本能や他のいくつかの自然的習態を慣習と区別することの方がもっと難しいのは認めます。それでも、たいていは区別できると思います。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、93頁)

Re: また繰り返しになる部分も有りますが…。 佐々木 寛 - 2009/12/05(Sat) 21:15 No.20530

 「ただ、われわれの「知」というのは、そうした経験から得られるものがすべてではないと私はおもうのですね。たとえば計算能力を考えると、「1+1=2」とか「10+15=25」のようなものであれば、指を折ったり、モノで代用するなりして数えた実体験からそうした実感や解答を導きだすことができるかもしれませんが、たとえば「258,568+609,359」のような計算は、直接的な経験知や体験ではなく、経験知の応用によって解答を導き出すのではないでしょうか。それと、この「258,568」なり「609,359」といった数の概念(私はそれを適当に書いただけですが)も、われわれがこれらの数を経験したことがあるからその概念を把握しているとは言えないのではないでしょうか。」(如月さん投稿より)

 応用や類推などというのは、しばしば我々が、経験していることです。当然、経験知の応用というのは経験の範囲内でしょう。右手の指を一つ二つと曲げながら、1・2・3・4・5(ここで右手の指が全て曲げられる)・6(ここから曲げた指を伸ばして)・7・8・9と数えるのは、1ずつ加えて行くということでしょう。そして、9の次が、10で位(桁)が一つ上がり、そこで左手の指を一つだけ曲げる。それから、また右手で、11・12・13・14・15・16・17・18・19と数えられるならば、後は原理的に、この繰り返しで、100まで数えられますし、その後も、左手の指の代わりに別のものを位(桁)が一つ上がった目印(めじるし)として一つずつ用意すれば、原理的に無限に、この操作を繰り返すことが可能だと考えられます。
 それから、インド記数法を基にしたアラビア数字による数値、「258,568」と「609,359」の加算は、簡単な、一桁同士の足し算から二桁同士の足し算へと、我々が習い覚えたように、六桁同士の足し算も、算術の計算規約に基づいて可能でしょうし、数や算術自体、後天的に習得した経験を多くの人が持っているのではないでしょうか。少なくとも私は、数の数え方などを父親などから教わった経験を持っています。数や言葉を教わると、それに付随して暗黙の内に、論理の規約である同一律や矛盾律も教わることになります。
 子供の頃には、簡単に教えて貰ったり自分でも考えると思いますが、「山」や「犬」という言葉を教わり、その意味内容として、概念があります。たとえば、山とは、平らな平野などから高くなっている部分であり、犬とは、四本足の生き物でワンワンと鳴くものであるなどが、その言葉の意味内容であり、その簡単な概念ですね(ちなみに、犬という言葉と、その概念〔=意味内容〕を教えられた後で、実物の犬を見たり触れたりする経験をしたということもあるでしょうが、この場合、限定的ですが、犬の実際経験以前に犬の概念があることになります。ただし、厳密に言えば、その概念は言語経験により、得られたものに他なりません)。さらに進むと、何度か述べたように、「線」という〔言葉〕は、「幅の無い長さ」という意味〔線の概念〕であるなどになります。
 また、ある具体的な数を経験したことが無いから、数の概念を把握しているとは言えないというのは、たとえば、アフリカなどに存在するバオバブという樹木を実際に見た経験が無いから、樹木の概念は把握できないし、経験から樹木の知識を得ることはできないと言っているのに近いように思えます。常識的に言って、バオバブ以外の身近にある松や杉などの樹木を観察する経験は持てますので、樹木に関する相応の知識や概念は持てるでしょうし、新種が確認されたら、既知の樹木の種類に加えるか、分類上、新たな種類を付け加えれば良いだけの事だと考えます(ほとんど問題ないでしょう)。

 「テオフィル「それらの知識の現実的認識が生得的なのではなくて、潜在的認識と呼べるものが生得的なのです。ちょうど、大理石の石理の描く形が、加工によって発見される前に、大理石のなかにあるようなものです。」(如月さんの引用より)

 …と、ライプニッツは述べていますが、知的能力が潜在的かつ生得的だと考えた方が適切だと思っています。私が、父親からも誰からも数え方を教わらなければ、そもそも数えること自体できないでしょうから、幼い頃に知的な潜在能力を適切な学習経験により、引き出すことは重要でしょう。そうでなければ、大理石の塊は、何の像も描かれず仕舞いになるでしょう。実際、不幸な野生児の例もありますから…。
 それから、顕微鏡の問題ですが、これも、それほど大した問題でもないでしょう。そもそも我々は、ラッセル流に言えば、センスデータ(感覚与件)として、あらゆる対象と関わる訳ですから、肉眼だろうと光学顕微鏡だろうと電子顕微鏡だろうと、それが対象として、本質的に、センスデータ(感覚与件)であることには、何の変わりも有りません。ちなみに、二千数百年前に、釈迦牟尼が、そのことを明確にしています(正直に言って、桁違いの頭脳だと思うし、人格も桁違いに思えます)。そして、感覚与件(経験事実)外に実在を仮定しても、それは、検証できない仮定でしかなく、その意味で唯物論は、観念的と言わざるを得ません(たしか、ショーペンハウアーも、同様のことを指摘していたように思います)。
 最後に、「生得的原理が即座に明証的とは限らない」(如月さん要約)というのは、ライプニッツが自説の説得力の無さの言い訳で述べているようにしか聞こえないところも有ります…。

 追記:「(たしか、ショーペンハウアーも、同様のことを指摘していたように思います)」というのは、表象(意識)の方が前提であり、物は従属的であるということを、ショーペンハウアーは述べていたはずです。

Re: 一皮(ひとかわ)剥(む)けたような、くまげん7くん…。 佐々木 寛 - 2009/12/05(Sat) 21:29 No.20531

 「これは、ライプニッツの場合、モナドが複数であり、かつ共通の概念を共有しているからかなともおもいます。こう考えると、ライプニッツの哲学は一見モナド中心の独我論のようでありながら、モナドの複数性というところで、社会性という視覚をもちうるようにもおもうんですね。その概念や観念の社会性を保証しているのがコトバということになるのでしょうか…。」(如月さん投稿、№20008より)

 「いや、わたしが死んでも、わたしが見ているあの山は存在するはずだ。これまでと同じように…。と考えるのは実はある手続き上の間違いをしています。「わたしが見ているあの山」はわたしの経験です。これまでと同じようにという歴史性は、誰の経験でしょう?…これは社会(ことば=言説)の経験です。実は外部世界=宇宙の普遍を語ろうとして、ことばの普遍をこの文章は語っているだけなのです。」(くまげん7くん投稿、 №19989より)

 くまげん7くんの述べた、この部分は、結構、重要なことだと思いますね(何か一皮剥けたように思える)。私の場合、普遍は、言葉あるいは論理の規約である、同一律および矛盾律が保証するものだと考えています。そして、それは規約ですから、当然、社会性も備えています。また、同一律や矛盾律というのは、共有概念あるいは共通概念だとも言えると思います。
 
 追記:知らない間に、ここで議論が続いていたんですね。見逃していました。

Re: 道徳について…(一つ、忘れていましたね)。 佐々木 寛 - 2009/12/06(Sun) 11:19 No.20571

 道徳が、生得的か、後天的かという問題ですが、これは、後天的でしょう。子供の頃に、両親などから、嘘を付くな、人のものを盗むな、人を傷つけるな、などと躾られて、その後、自律的に自身の行動を律するようになる場合が多いのではないでしょうか。幾度も例に出しましたが、たとえば野生児に、人間的な道徳意識が有れば、生得的だと言えますが、そうではないでしょう。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/12/06(Sun) 18:30 No.20590

 モナド(単子)というものが一つの精神であること、精神作用の根源として見出されるものとして規定したこと。

 これにつきるのだと思います。

 ただ、これはキリスト教的一神論を前提としているために予定調和(均衡ではない。)という世界概念に直結しました。

 生得概念というアイデアは実は人間は神の育てた智慧の実を食べたものということが前提で言っているのです。だから、一人一人の内に神の智慧がある。ということです。

 カントのアプリオリとは違います。カントは人間という存在が限界づけられたものであるという神を必要としないアイデアから出発しています。(それでも、カント自身は神を持ち出して存在証明してますが、結論はいてもいなくても人間にそれを知ることはできない。です。そして、神とは論理上の必要からその存在が 証明されるものという話にすりかえてしまいます。要請論。)

 ライプニッツが注意深く、真理=原理としているのは科学的精神である現象は法則の現れという世界観の萌芽です。実体は見ることのできない法則の方であり、現象はその現れだ。というのは<説明の方法>の一大革命でした。

 なぜなら、今まで神の計画や神の意志、神の王国を作る過程として世の中というもの、世界というものの動きがあると考えていたのです。それが、神とは無関係に、元々、決まりがあって、その通りに動いているだけだ。(物理学的決定論)は神の計画があったとしても、それが失敗なら、もうすでに失敗していて、何をしても失敗するのだし、成功しているなら、何もしなくても成功するということになるからです。(話が横道ですみません)

『人格知識論の生成』 如月 - 2009/12/08(Tue) 00:06 No.20646

 上方のスレッドの○○さんの投稿におこたえしようとおもって小サイト内のページをあちこち開いているうちに、一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成――ジョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会、1997年)を要約紹介したページにいきついて、久しぶりに読み返してみたらけっこうおもしろかったです↓。

http://www.furugosho.com/nomadologie/ichinose1.htm
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如月さんの掲示板での議論を転載(3)

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承諾が得られましたので、如月さんの掲示板で行われた議論を、以下に転載します。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi

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ライプニッツのホッブス批判 投稿者:如月 投稿日:2009/11/14(Sat) 21:06 No.18363

 ホッブスを批判したライプニッツ初期の著作『対話――事物と言葉の結合、ならびに真理の実在性についての』(1677年)のなかに、定義、記号、真理の所在などについていろいろとおもしろいことが書いてありましたので以下に引用・紹介してみます(佐々木能章氏訳、『ライプニッツ著作集』第八巻、工作舎)。なお、この著作は非常に短いものですから、ご興味ある方はオリジナルもご参照ください。

     *     *     *

A ある思考が真か偽かになるには原因がなければならないとすると、この原因は一体どこに求められるべきなのだろうか。
B 事物の本性の内にだと思います。
A 君自身の本性から発するとしたらどうだろう。
B それでも、そこからだけということはありません。というのも、私の本性と私が思考している事物の本性とに基づくなら、方法に正しく則って歩を進めて行くことによって、当面問題となっている命題を必ずや論証し、あるいはその命題が真なることを見出し得るはずだからです。
A 見事な答えだ。でもまだ厄介なことがある。
B それは何でしょう。是非教えてください。
A 学者の中には、真理は人間の恣意(arbitrium)から生ずる、つまり名称や記号[の付け方]から生ずると考えている人がいるんだ(訳註:ホッブスのこと)。
B 何とも奇妙な考え方ですね。
A しかし彼らはその考え方を、こんな具合に証明している。まず、定義とは論証の基本ではないだろうか。
B その通りです。定義を幾つか互いに結び付けるだけで証明されるような命題もあるくらいですから。
A するとそのような命題の真理性は定義に依存していることになるね。
B おっしゃる通りです。
A ところが、定義はわれわれの恣意に依存している。
B どうしてそうなりますか。
A ではどうだろう。ある図形を示すのに「楕円」という言葉を用いるのは数学者たちの恣意によるのではないだろうか。また、「キルクルス(円)」という言葉にその定義が表している意味を宛てるのはラテン人の恣意によるのではなかったかな。
B だからといってどうなりましょう。言葉がなくても思考することはできますよ。
A しかしそこには[言葉とは]別の符号(signum)がなければならない。考えてもごらん。君は数を表わす符号なしに算術の計算ができるかい。
B 何だかわからなくなってきました。そもそも、推論にとって記号や符号がこんなにも必要なものだとは思ってもいなかったからです。
A では、算術の真理は何らかの符号や記号を前提にしているのだね。
B そう認めざるを得ません。
A となると、それは人間の恣意に依存するということになるのではないかな。
B なんだかすっかりだまされてしまったような気がします。
A これは私の考えではなく、かのぴか一の切れ者が言ったことだよ。
B しかし、真理が恣意的であり名称に依存するなどということを確信するなんて、正気の沙汰とは思えません。だいたい、数学はギリシア人にとつてもラテン人にとつてもドイツ人にとっても同じものなんですから。
A 君の言う通りだよ。けれども、困難には決着をつけなければならないね。
B 一つだけ腑に落ちないことがあります。どんな真理でも、心の中で言葉や他の符号と結び付けることなしには認識も発見もされないということは、一応わかったのですが、もうひとつはっきりしません。
A 確かに、もし記号がなければ、われわれは何ものをも判明に思考できないし、推論をすることもできないわけだ。
B しかし幾何学的図形を研究していて、その図形を精確に考察することだけで真理を見つけ出すことがしばしばあります。
A それはそうだけど、ただそのときには図形が記号とみなされているということを忘れてはいけないよ。だいたい、紙の上に描かれた円が本当の円だというわけではないし、またそうである必要もない。われわれがそれを円とみなすだけで十分なんだ。
B でもそこには円と何かしら類似したところがあります。恣意的であろうはずがありません。
A その通り。だからこそ図形は記号としては最も有効なわけだ。だけど、例えば十という数と「10」という記号との間にはどんな類似性があると思うかね。
B とりわけ記号がうまく考え出されているときには、記号同士の間にある何らかの関係や秩序は事物の内にあるものです。
A いいだろう。しかし[関係に先立つ]第一の[記号としての]要素そのものは事物とどんな類似性があるのだろうか。例えば、「0」と無とが、ふるいは 「a」[という記号]と線分とがどのように類似しているのだろうか。こう考えれば、少なくともこれらの要素においては類似性が一切必要ないということを、君も認めないわけにはいくまい。
(中略)
B でも見逃すことのできない点があります。推論をするため記号を用いることができるとするなら、その記号の内には何らかの複雑な位置関係や秩序があります。これが事物のあり方に適合しているのです。一つ一つの言葉が事物と適合していることはない(これが適合しているならそれに越したことはありませんが)としても、少なくとも言葉の結び付きや変化の仕方は事物の側と合致しているのです。この秩序は、言語によってそれぞれ異なってはいても、何らかの仕方で互いに対応しているのです。こう考えれば、困難から抜け出る希望も見えてきます。というのも、記号[の選定]自体は恣意的であっても、その記号の用い方や記号同士の結合には恣意的でないものがあるからです。つまり、記号と事物との間の一種の相応 (proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relatio)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。このために、どの記号を用いようとも、常に同じもの、等価値なもの、相応的に対応するものが出現してくるのです。しかし恐らく、思考するためには常に何らかの記号を使わねばならないでしょうね。
A お見事。君は困難からいとも鮮やかに、しかも完璧に抜け出したね。君の言ったことは、算法とか算術の解析とかが確認している通りだよ。数の数え方の場合、十進法を用いようと、あるいは誰かがしたように十二進法を用いようと、帰するところは常に同じだ。さまざまな仕方で計算したことを、その後に豆粒やその他の数えやすいもので確かめてみれば、常に同じことになるだろうね。解析の場面でも同様で、違った記号を用いた方が事物の違った側面(habitudines)をたやすく浮かび上がらすことがあるとしても、真理の基底(basis)は常に記号の結び付き方と配置の仕方の内にある。(以下省略)」(同書12-16頁)

スピノザが死んだ年 如月 - 2009/11/14(Sat) 23:20 No.18370

 この対話が書かれた1677年は、ちょうどスピノザが死んだ年ですね。ちなみに、その前年ロンドンからの帰路に、ライプニッツはスピノザと会い、対談しています。

記号がかかわるもの 如月 - 2009/11/15(Sun) 09:15 No.18428

 ライプニッツの記号ならびに表出の考え方について、増永洋三氏の『ライプニッツ』~「人類の知的遺産36」(講談社、1981年)から補足しておきます。

     *     *     *

 「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない。単純観念の真理は、この観念の表わす実在と恒常的な規則立った或る関係を保つことである。しかしこの関係は直感可能ではない。何故ならば絶対項が我々の達し得ぬところにあるのであるから。従ってかかる関係への信憑を、諸観念の整合性が合理的信憑たらしめるのである。このことは、我々にとって真理は観念にではなく、観念の関係に存する、ということにほかならない。それによって我々は、被造物としての我々の観点の制限から抜け出る。勿論我々は神と同一の観点はもち得ない。しかし我々は神の観念間に成り立つ関係としての真理にまで高まり得るのである。神が我々に真理を示す時、我々は我々の悟性のうちにある真理を獲得する。というのは、神の諸観念と我々の諸観念との間に、完全性と範囲に関して無限の差異があるとはいえ、両者は同一の関係において合致することは常に真であるから、それ故この関係のうちにこそ我々は真理をおかなければならないのである。
 ところで記号が表示する観念とそれらの観念の関係とが表わすものは何か。広義の観念は、感覚、イマージュ、概念を包含する。このうち、イマージュは感覚を類似によって表現する。しかし、概念がイマージュあるいは感 覚を表現するのは類似によってではない。円の概念は知覚される円に類似しない。経験主義者たちは、観念とイマージュを同一のものである、と仮定することによって思い違いをしている。イマージュが概念を構成するどころか、反対に概念がイマージュにその意味を与えるのである。我々は言葉又はその他の記号なしに考えることは出来ないが、それは補助手段にすぎない。
 それでは何故記号的思惟が、事物にではなく、我々が事物の代りにおいた記号にかかわりながら、その実り豊かさを少しも失わないのであろうか。それは、記号的思惟が、特殊な内容の把握にとどまることなく、宇宙と我々の理性を同時に秩序づける形而上学的メカニスムの一般法則にかかわるからである。記号的思惟はその形式的構成によって、物理学的と形而上学的とを問わず、一切の可能的経験の枠を構成するのである。「この世の人間には、諸存在の総体がどのような根拠によって、純粋な存在と無から生み出されるかを示す、事物のかくされた系列に達し得る望みはないけれども、しかし、観念の分析が真理の証明にとって必要とされるところへまでおし進められれば、それで十分である」。表出の理論は、実体間の相互表出にその存在論的基礎を有する。実体の各々は、それらの位置によって決定された系列の法則に従って自発的にそのはたらきを展開する。実在的因果性に対して、表出の教説はイデアルな因果性をおきかえるのである。」(同書26-7頁)

     *     *     *

 引用文の冒頭の「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない」という部分は、デカルト批判、さらには経験論批判につながる部分ですね。具体的な事象に関する観念をその対象もしくは内実としてとらえることは、ライプニッツの思想のなかでは不可能と考えられており、これは一方で代数的発想であると同時に、認識論的には、無意識を前提とした不可知論に支えられているわけですね。

記号と内実の並行関係 如月 - 2009/11/15(Sun) 10:22 No.18436

 ところで、記号とその内実あるいはそれが指し示すものがけして交わることがなくまた互いに浸透し合うこともなくどこまでも並行関係を保ちながら真理のあり方を開示するとなると、これは予定調和説のミニチュア版ですね。というか、予定調和説の提起者からすると、記号とその内実は、けして浸透し合ってはいけないということになるかともおもいます。
 ライプニッツの場合、これがそっくりそのまま認識論の論理と入れ子構造になっているのですね。

Re: ライプニッツのホッブス批判 佐々木 寛 - 2009/11/15(Sun) 22:57 No.18511

 「というのも、記号[の選定]自体は恣意的であっても、その記号の用い方や記号同士の結合には恣意的でないものがあるからです。つまり、記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。このために、どの記号を用いようとも、常に同じもの、等価値なもの、相応的に対応するものが出現してくるのです。」(如月さんの引用より抜粋)

 言葉や記号の意味が、一般化するためには、暗黙にでも、それが規約として認められなければならないし、そうでなければ、まったく誰にも通じない恣意的なものに、とどまるでしょう。如月さんが、引用した上記の部分は、ライプニッツが、コンディヤックに先立ち、記号の重要性を指摘していたと言える部分でしょうね(コンディヤックが知っていたか、どうかは別ですが…)。

 「引用文の冒頭の「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない」という部分は、デカルト批判、さらには経験論批判につながる部分ですね。」(如月さん投稿より)

 それは、どうでしょうか…。取り敢えず、いま、如月さんの掲示板の中だけの引用や投稿文から受け取れるところでは、こういう解釈も可能だと考えます。
 少し前の、「(如月さんの引用より抜粋)」からの再掲ですが、「つまり、記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。」というのが、ライプニッツの立場ですね。
 ですから、これは要するに、「絶対的なものの不可謬の直感」など必要なく(それは真理の基準を我々に提供しない)、「記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)」こそが、“真理の基礎”なのだという解釈の方が、整合的で妥当だと、私には思われます。また、そうでない場合は、ライプニッツの考えに、矛盾があると考えざるを得ません。

真理の直観の不可能性 如月 - 2009/11/16(Mon) 00:25 No.18520

 矛盾かどうかはわかりませんが、ライプニッツ的に考えれば、「絶対的なものの不可謬の直感」は、「不必要」なのではなく「不可能」なのです。なぜならそれは、人間の悟性には記号としてしか表出されないからです。したがって絶対的なものの直感が可能とするデカルトへの批判につながっていくのですね。ですから、増田さんが指摘しているのは、「不可能であるところの観念の明証を真理の基準にはできない」ということだとおもいます。
 ちなみに、ライプニッツにとって重要なのは、言葉や記号の意味が一般化するかどうかということではないとおもいます。彼が重視するのは、あらゆる事象が記号化されてわれわれに提示・表出されているという代数的な考え方ですね。仮に「意味」といっても、その「意味」そのものが結局は記号であり、「意味」による把握はトートロジーでしかないとライプニッツは考えるのではないでしょうか。つまり、A=Bが保証されるのはB=Aだからであり、これは結局A=Aにいきついてしまいます。ゆえにライプニッツは「A=A」というトートロジーの論理を非常に重視しています。

トートロジー 佐々木 寛 - 2009/11/16(Mon) 19:14 No.18609

 同語反復(トートロジー)と言うと、マイナスのイメージが付き纏いますが、それを言葉および論理の規約と考えた場合、非常に重要な意味を有することは間違いないでしょう。
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ダライ・ラマ法王14世 来日特別記念講演

お知らせ【信州善光寺】
ダライ・ラマ法王14世来日特別記念講演
http://www.zenkoji.jp/oshirase/index2.html
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大雪

 東北地方では大雪、そのため今日は、朝と夕方の二度、雪掻きを行った。
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謹賀新年

明けまして、おめでとうございます。
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北朝鮮&中国関連

朝鮮総連、国会議員に対朝支援工作 中国は最新技術盗む 警察庁「治安の回顧と展望」 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091210/crm0912100501002-n1.htm

朝鮮総連、国会議員に対朝支援工作 中国は最新技術盗む 警察庁「治安の回顧と展望」 (2/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091210/crm0912100501002-n2.htm
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天皇陛下即位20年

問題山積ですが、何は、ともあれ、喜ばしいことです。
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かつてのアルゼンチンのように

 私も、このままでは日本が、かつてのアルゼンチンのように、財政破綻しハイパーインフレになるのではないかと危惧している。…福田内閣、麻生内閣と、改革が後退し、ばら撒きに舵を切ったのが、さらに、政権が変わって、酷くなる予感がしている。

日本がアルゼンチンになる日の予感がする(大前研一氏)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091104/193320/
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ムソリーニは“英スパイ” 歴史家研究で判明と報道

ムソリーニは“英スパイ” 歴史家研究で判明と報道
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009101401001246.html

要するに、一時期ムソリーニは、イギリスの情報工作員だったということなのだが、現在の日本のマスコミ関係者も、どこかの国の情報工作員である可能性は、少なからずある。

たとえば、特定アジアの国々の利益の代弁者としか思えないような輩(やから)など…。
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如月さんの掲示板での議論

よろしければ、どうぞ。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi
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空間および空

 幾何学の公理は、私が幾度か述べたように経験に由来すると考えています。要するに我々は、「経験的に、長さを測る時には幅を無いものと仮定」していますから、「幅の無い長さ」という線の定義は、そこからのものだと考えられます(もう一つ付け加えるなら、細く伸びた髪の毛や糸のような観念(イメージ)と、先に述べた「幅の無い長さ」という概念との複合されたもの〔観念:概念〕だとも考えられます)。
 さて、長さは、換言すれば、距離でも有ります。人が両手を広げた長さを「一尋(ひとひろ)」とも言うそうですが、たとえば真っ暗な部屋の中に居るとして、そこで部屋の壁沿いに、一尋(ひとひろ)、二尋(ふたひろ)…と、自らが動き、測れば、真っ暗でも部屋の中の、その方向の距離が測れます。当然、この場合、自らの体が動けるのでなければ、その距離は分かりません(この場合、動けるというのは、経験できるということでも有ります)。
 要するに、幾つかの向き(3次元)に距離(一尋の回数:数値)を考えれば、広がりのある空間(座標)をイメージできます。ただし、ここには、長さを測れるという経験的な要素が含まれていることを忘れてはならないと考えてもいます。参考までに、以下に、少し引用します。

 「…ニュートンにとって空間は、いかなる事物にも先立って存在し、いっさいの事物がそのなかで生起する〈容器〉のごとき概念として理解されていたことは確かであろう。デカルト的な三次元座標によって表現されるにしても、空間は三方向に一様に広がり、しかも、経験的事物とは無関係に存在するのである。その意味では、空間は、存在論的にいっさいの事物に先行するものであり、その点で〈絶対的〉でもあることになる。一方これに対して、アリストテレス的な関係論的解釈を洗練徹底し、ニュートンの絶対主義的な空間解釈と対立したのはライプニッツであった。ライプニッツは、事物の存在に存在論的に先立つ空間という考え方を否定し、事物の存在に伴って初めて現れるさまざまな関係(順序、位置など)がわれわれに空間という概念を与えるにすぎないと考えた。これを空間の関係主義的解釈と呼んでおこう。」(『世界大百科事典』、平凡社、「空間」の項より)

 上記で、引用したように、ライプニッツが空間について、相対的な関係(運動および経験を含む)を重視するというのは、幾何学の公理が経験に依らない知識だとする考えとは、首尾一貫しない説明です。空間が、相対的な関係に依るなら、幾何学の公理も同様だと、ライプニッツは考えるべきだったと、私は思っています。
 また、ここで、ニュートンの、「経験的事物とは無関係に存在する」、空間概念というのは(任意に基準点と事物の運動を設定できる)思考実験をする時に、「経験的な事物を無いものと仮定した」、空間だとも考えられますが、これは、「長さを測る時に幅を無いものと仮定したこと」と、同様のことだと考えることもできます。要するに、ニュートンの言う、絶対空間の絶対とは、多分に修飾語的なものにしか思えません。

 竜樹、『中論』、「八不」(『中論』、三枝充悳=訳注、レグルス文庫、参考)より。

  不生亦不滅(不生にして亦た不滅) 生ずることもなく、また、滅することもない。
  不常亦不断(不常にして亦た不断) 常住でもなく、また、断滅でもない。
  不一亦不異(不一にして亦た不異) 同一であることなく、また、異なっていることもない。
  不来亦不去(不来にして亦た不去) 来ることもなく、また、去ることもない。

 上記引用は、空(くう)について書かれたものです。この思想の背後には、近代科学のエネルギーに近いものが、指し示されているように考えています。すなわち、真空妙有とは、固定的実体の無い真空の純粋なエネルギーのような存在についての確信とも言えます。ちなみに、広辞苑によると、エネルギー保存の法則とは、「「外部からの影響を受けない物理系(孤立系)においては、その内部で、どのような物理的あるいは化学的変化が起っても、全体としてのエネルギーは不変である」という法則。無からエネルギーを創造し得ないことを示す、物理学の根本原理の一」と有ります。そうだとすると、無から宇宙が生まれたとするような、ビッグバン宇宙「開闢」論などは、エネルギー保存の法則と、明らかに矛盾することになるとも考えています。

カシミール効果 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C
零点振動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E7%82%B9%E6%8C%AF%E5%8B%95

 追記:幾度も述べましたが、我々は「経験的に、ある物の長さを測る時には、幅を無いものと仮定」していますから、「幅の無い長さ」という線の定義は、そこからのものだと考えられますし、もう一つ付け加えるなら、細く伸びた髪の毛や糸のような観念(イメージ)と、先に述べた「幅の無い長さ」という概念との複合されたもの〔観念:概念〕だとも考えられます。

 要するに幾何学の公理とは、このように経験に由来し、経験を基に仮定された、議論の前提となる、規約なのです。
 
 言葉や規約が生得的(先天的)でないことは、以前紹介した、言葉を持っていなかったアベロンの野生児などの実例でも分かりますし、また、我々が、母親などに育まれながら、後天的に言葉を、赤ちゃん言葉から習得してきたのは確かでしょう。そして、我々が、幼稚園や小学校に入る前には知らなかった言葉を、その後、少しずつ習得し、発達してきたことも、経験された事実ではないでしょうか…。

 ただし、言葉の習得以前に、習得できる能力を有する、“識”(シキ:ビジュニャーナ)が先天的(生得的)なものとして存在していることは確かです。そして、それが、経験を成り立たしめる重要な要素であると言えます(なお、この場合の、“識”には、意識と無意識も含まれます)。ちなみに、清水の舞台で有名な京都の清水寺は、仏教唯識派(法相宗)の寺で、ライプニッツが生まれる、800年以上前に開山されています(イギリス最古のオックスフォード大学より古く、唯識思想の研究教育機関としての役割もあるのだと思います)が、その唯識思想において、いわゆる無意識は、末那識(七識)に含まれるものでしょう。そして、唯識的に言えば、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識などの五感(五識)、および、意識(六識)と末那識(七識:無意識)をも、成り立たしめるのが、阿頼耶識(八識)であると考えています。

 すなわち、「我々の“識”は、我々自身にとって、先天的」なものなのです。
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【認識論関連】 ロック&ライプニッツ&コンディヤック

ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させたのは、コンディヤックでしょう。コンディヤックと比較して、ライプニッツの認識論には、説得力が有りません。下記は、『人間認識起源論』からの引用です。

「スコラ学者やデカルト主義者たちは、人間の認識の起源も生成過程も知らなかった。というのも、彼らは生得観念の原理や知性に関する曖昧な概念から出発したのであるが、そうしたものはこの[認識の起源や生成の]発見と何の関係も持たないからである。これに対して、ロックは感官から出発したので、この仕事をもっと巧みになし遂げた。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、244pより)
「記号を使用することが徐々に魂の様々な働きを開発し、今度は逆にその開発された魂の働きの方が記号を完成させ、それを使用することに慣れさせていった。この両者が互いに助け合うということは、我々の経験が証明するところである。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、 19pより)

さて、幾何学における、「線とは、幅のない長さである」、などを例に上げて、これを経験に依ることのない概念だと断定することには無理が有ります。何故なら、我々は経験上、実際に、ある物の長さを物差しなどで測っている時には、その幅や厚みのことを無視(幅や厚みを無いものと仮定)しているからです。要するに、経験に依らないのではなく、逆に、長さを測るという経験から、「幅のない(幅を無視した)長さが、線として」、定義されたと考えるのが妥当です。
また、「仮に、今この時に、ある人が、ここにコップが有りながら、無いと言えば、それは虚言(ウソ)であると同時に、論理的には矛盾でもある」というのは、日常的に、自然言語を使用する中で、経験し得ることです。要するに、矛盾という論理も、自然言語の虚言(ウソ)から導かれ得るものです。
さらに言えば、言語が生得的ならば、言語を持たなかった野生児の実例を、どのように説明するのか? という問題も有ります。
ちなみに、以下に引用した、フランスのアベロンの野生児の例、および上記で引用した、『人間認識起源論』の出版は、ライプニッツ死後のことですから、ライプニッツは、それらを考慮していないことになります。

「親から遺棄されたり、野獣にさらわれたりして動物たちとともに生活する子供は物語によく登場するが、実際に発見された子供はヨーロッパを中心にして数十例の報告がある。とくに有名な記録は、18世紀末フランス、アベロン地区コーヌの森で発見され教育者イタールにより訓練された11~12歳の少年ビクトールVictor(アベロンの野生児)、20世紀初めにインド、ミドナポルの森でオオカミに育てられたおよそ8歳と2歳の2人の少女(アマラとカマラ Amala & Kamala)などの教育訓練・養育の記録で、広く公刊され、学問的にも価値が高い。これらの野生児はいずれも発見されたときには言語をもたず、人間としての感情に欠け、野生としての行動が特徴であった。」(『日本大百科全書』、「野生児」、小学館より)

補足:ライプニッツは、『人間知性新論』において、知的観念や概念は、感覚に由来するものではなく、生得的だと主張している。その理由として、幾何学における公理(すなわち、「線とは、幅のない長さである」など)を例に上げ、これを経験に依らない概念だとしているのだが、上記で私が述べたように、これは経験から習得的に得られる概念である。また、矛盾という概念も、自然言語(規約)習得過程で、虚言(ウソ)の存在から、同様に後天的に得られるものである。依って、ライプニッツの説には、説得力がない。

追記:私の認識論は、ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させた、コンディヤックの認識論を、さらに一歩、前進させ得たものだと自負しています(実は、ロック以前に、仏教哲学が、五官および六根による知覚を重視していますが…)。要約すると、認識は、感官からの経験によると述べたのがロックで、それに言語(記号)の重要性を付け加えたのが、コンディヤックです。さらに私は、それらに加え価値の重要性と、その三つの要素の整合性が重要だと考えています。以下に引用。

【認識論】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

一般的に認識というものは、対象となる事実経験(対象事実)と、論理一般(名辞:記号、概念:観念、論理:構造)の無矛盾性と、価値一般(正と負と中立の価値および全的価値と個別価値など)との妥当性という、三種の要素の整合性によって齎(もたら)されるものと考える。
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告知

最近、急に私のインターネット接続環境が悪くなり、しばしば、インターネットに接続できたり、できなくなったりの状態が続いています。よって、私へのメールや、このブログへのコメントおよび、私のWEBサイトの掲示板への投稿に対する返信は、遅れがちになると思います。
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北朝鮮:ABC兵器

北朝鮮は、ABC兵器の全てを開発し、増強しているようだ。しかも、それを拡散させている可能性も高い。これは、アジア太平洋地域にとって大変な脅威であり、延いては、世界の平和を脅かしかねない由々しき問題でもある。

最大5000トンの化学兵器剤保有=炭疽菌など13種も-北朝鮮
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2009100500510

北朝鮮、13種類の細菌兵器を保有か 韓国国防省の報告
http://www.afpbb.com/article/politics/2649709/4722637

印が北朝鮮船拿捕 パキスタンが目的地か
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091004/kor0910041908001-n1.htm

「北朝鮮からミサイル200基買った」…カーン博士
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090910-OYT1T00890.htm
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2009年ダライ・ラマ法王四国特別講演

2009年ダライ・ラマ法王四国特別講演

日時:2009年11月03日(火・祝)13:30~16:00
会場:愛媛県武道館
※ 詳細は下記サイトへ、どうぞ(東京講演も有るようです)。

http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2009japan/shikoku.html
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「チベット50年 ダライ・ラマ亡命への21日間」

NHK-BS1 「チベット50年 ダライ・ラマ亡命への21日間」
放送日時:2009年9月12日(土)PM11時10分~12時00分

http://www.kanshin.com/keyword/1931231

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『ヴォルテール 哲学書簡 哲学辞典』

ベーコン(1561-1626)について、ヴォルテール(1694-1778)が、彼を、高く評価している部分が有る。『ヴォルテール 哲学書簡 哲学辞典』、中公クラシックス、86pより、引用。

「…彼らの言う「本質」とか「真空への恐怖」とか「実体的形相」とか、無知であるためにありがたがってしまっただけでなく、宗教とのばかげた結びつきが神聖なものであるかのようにしてしまったわけのわからないさまざまの言葉によって、人間の理性をだめにし続けないようにと、彼は自分の手に及ぶあらゆることを行った。」(ヴォルテール)

いわゆる、キリスト教神学に対する、批判である。ちなみに、ヨーロッパの18世紀を、ヴォルテールの世紀とも言うのだそうだが、それだけのことは有ると思う。さらに、『ヴォルテール 哲学書簡 哲学辞典』、中公クラシックス、83pから、引用。

「そして、どの世紀にもざらにいるあの政治家や征服者のたぐいは、普通は名の通った悪人でしかないのだ。まさにわれわれが尊敬の念を持たなければならないのは、暴力によって奴隷をつくる連中ではなく、真理の力で人びとの心を支配する人物にたいしてなのであり、また世界を醜くゆがめる者ではなく、世界をよく知る者にたいしてなのである。」(ヴォルテール)

追記:ベーコンによる学問の革新が、その後のイギリスにおける産業革命の基礎となる非常に重要なものだと、私は考えているのだが、ヴォルテールも同様に、その学問の革新の重要性を認識しているように思う。
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アウン・サン・スー・チー氏に、有罪判決

スー・チー氏有罪判決、ASEANに波紋広がる
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090812AT2M1202P12082009.html

たしか、この事件は、アウン・サン・スー・チー氏の住居に、外国人が侵入したことで、アウン・サン・スー・チー氏が、罪に問われたものと記憶していますが、住居に侵入した外国人が罪に問われるのは当然として、住居に侵入された側のアウン・サン・スー・チー氏も罪に問われるというのは、異常としか言いようがない。

アウンサンスーチー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%BC
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最近の、中国関連のニュース

【他国の言論の自由を、否定しようと干渉する中国】

カーディル氏の映画上映 豪、路上で小競り合いも
http://sankei.jp.msn.com/world/asia/090809/asi0908090922002-n1.htm
中国海軍の増強は脅威=予算追加し軍備増強を図れ―インド紙
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=32871

中国は真相を隠している ラビア・カーディル氏(上) (4/4ページ)
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090801/chn0908011801002-n4.htm
私たちはテロリストではない ラビア・カーディル議長(下) (1/5ページ)
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090809/chn0908091301001-n1.htm

【中国GDPに水増し疑惑!】

中国GDP水増し疑惑、語るに落ちた?マイナス発表の山西省を表彰
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090809/chn0908092005003-n1.htm
中国GDPに水増し疑惑 成長率でも中央と矛盾
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090804/chn0908041823005-n1.htm
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ラビア・カーディル氏、来日

『ウイグル暴動は中国の挑発原因』 カーディル氏
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009072902000246.html#print

【ウイグル暴動】1万人不明説、国連総長「調査の必要ある」
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090730/chn0907301209004-n1.htm

ラビア・カーディル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AB
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日の丸君が代訴訟、教職員側敗訴 「起立、斉唱義務負う」

日の丸君が代訴訟、教職員側敗訴 「起立、斉唱義務負う」
http://74.125.153.132/search?q=cache:oGboIWy-us8J:www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009071601000620.html+%E6%97%A5%E3%81%AE%E4%B8%B8%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E8%A8%B4%E8%A8%9F+%E6%95%99%E8%81%B7%E5%93%A1%E5%81%B4%E6%95%97%E8%A8%B4&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox

「国旗・国歌が嫌いな教員は辞めるしかない」知事発言にメール殺到 支持が9割
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/090702/stm0907021920014-n1.htm

原則として、公立学校における、入学式や卒業式での国旗掲揚や国歌斉唱時の起立は、公立学校教職員に取っては、公務であり、職務として行わなければならないものであろう。当然、行わなければ、公務員として職務精励義務違反、また、邪魔をすれば、公務としての式典の妨害になり、公務執行妨害などの罪に問われるのが普通だと考える。

基本的に、公務としての式典中に、それに従いながら、何を考えていても構わないわけであるし、思想の自由が侵害されているわけでは無い。そして、そもそも、自らの違法行為に対し、良心の自由を唱えられても、難癖、言い掛かりにしか聞こえない。

ようするに、日本国憲法、第十三条により、「…自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り…」において認められるのであり、職務中、公務員が税金から給与を受け取りながら、公務の放棄の自由や公務の妨害の自由など、認められないのが、当然。

農水省、ヤミ専従1237人処分 給与25億円、返還を要求
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090718AT1G1703Q17072009.html

ヤミ専従、国交省など3省で1466人
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090807AT1G0702F07082009.html
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中国、ウイグルで暴動

【ウイグル暴動】暴動の死者156人に 中国、700人以上拘束
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090707/chn0907070754002-n1.htm

中国:ウルムチ暴動死者156人に カシュガルでもデモ
http://mainichi.jp/select/world/news/20090707k0000e030039000c.html

【ウイグル暴動】ワシントンで中国に抗議デモ 世界ウイグル会議が声明
http://sankei.jp.msn.com/world/america/090708/amr0907080948007-n1.htm

かなりの数のウイグル人が、中国当局に拘束されたと聞いていますが、その後、どうなっているのか、何の報道も有りません。現地では、中国当局が、情報統制しているそうですから、殺されていなければ良いのですが…。

:::::以下は、追記:::::

新疆暴動「大虐殺のようだ」 トルコ首相、中国政府の対応を批判
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090711AT2M1101N11072009.html
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イランと北朝鮮

イラン代表団 北と関係強化 核実験視察
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/270246/

混乱のイラン、民衆が伝える弾圧の実態
http://jp.epochtimes.com/jp/2009/06/print/prt_d86092.html

着実に、核兵器の開発を進める北朝鮮と、イランの関係は、かなり親密であり、また、ともに民衆への弾圧は、酷(ひど)い。
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北朝鮮が、日本への、核攻撃を示唆か?

「論評はまた、「日本の主要都市である東京、大阪、横浜、名古屋と京都には、日本の人口の3分の1以上が住み、工業の基幹部分が集中している」とした上で、「強力な反撃が行われれば、日本は修羅場になるだろう」と強調した。」(下記URLより)

「日本全土が報復圏内」「修羅場に」と警告 北朝鮮
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090529/kor0905291136006-n1.htm

弾道ミサイルを日本列島に向けて発射し、さらには核実験まで行った、ヤクザな北朝鮮の言い分が、まったく理解できない。北朝鮮側こそが(一方的に)、着々と日本への核攻撃の準備を進めているようにしか見えないのが現状である。
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